連合の状態
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「スウェーデン=ノルウェー」の記事における「連合の状態」の解説
?ノルウェーの旗(別の仕様、1814–1821年) ?ノルウェーの旗(別の仕様、1814–1821年) ?ノルウェーの旗(別の仕様、1814–1821年) ?ノルウェーの軍用旗、1814年 ?スウェーデン=ノルウェーの軍艦旗、1815–1844年 ?スウェーデンの旗、1844–1905年 ?ノルウェーの旗、1844–1898年 ?ノルウェーの軍艦旗、1844–1905年 「スウェーデンの国旗」も参照 国王オスカル2世の治世におけるノルウェーとの関係は、スウェーデンにおける政治生命に大きな影響をもたらし、両国の連合が一度ならず破綻しようとしているように見えた。その軋轢は主に、個別の領事、そして最終的には個別の在外業務をノルウェーが要求したことが発端であった。ノルウェーは(1814年の憲法に従い)領事館を分離する権利があったが、一つには財政上の理由により、また一つにはスウェーデン外務省によって任命された領事が一般的にはノルウェーの代表として十分な仕事をしていたため、その権利を行使していなかった。 無駄な交渉と議論の末、1895年についにスウェーデン政府はそれまで二国間に存在した通商条約が1897年7月に期限が切れるということをノルウェーに通告し、そして(リクスダーグの決定に従い)中断し、またその時ノルウェーが関税を上げたため、スウェーデンの対ノルウェー輸出が著しく縮小した。ノルウェー人に対して過度に友好的であると見なされたスウェーデン外務大臣Carl Lewenhauptが辞任し、後任には第一院における主流意見を代表するルドヴィグ・ダグラス伯爵が就任した。しかしながらノルウェーのストーティングは、国王オスカルが最終的に認可した、国旗または「純粋な」旗の法案を(3度目に)可決した時、ダグラス伯爵は任期中に辞任し、在ベルリンスウェーデン大使Lagerheimが後任となった。Alfred Lagerheimは連合の問題をより静かな海へ導くことを成し遂げた。 彼は1900年のリクスダーグに新しい選挙としてより一層よく成功した。スウェーデンの人々が超保守的な所謂「愛国的な」政党に従う傾向がないことを明らかにした。それら政党の2名の代表、オスカー・アリン教授と第一院議員であるPatrick Reutersvärdが退陣するという結果となった。その一方で、ヨーテボリ大学の元教授E. カールソンは、約90人の議員でLiberals and Radicals党の結党に成功した。E. カールソンは市民権の拡大に賛成した他に、外交問題の管理でノルウェーとスウェーデンの完全な平等を提唱した。 ノルウェーとの関係に関して、しばらくの間は静寂の状態が続いていたが、長くは続かなかった。ノルウェーのため領事を別々にする問題はすぐに再び取り上げられた。1902年にスウェーデン政府は、本件の交渉はノルウェー政府に対して率直にすべきであり、また両国の代表により構成される合同委員会は、2ヶ国の既存の外交事案の管理に決して干渉することなく、領事館を分割する問題を考慮するため任命されるべきである、ということを提案した。 その交渉の結果は1903年3月24日付けでいわゆる「コミュニケ」(共同声明)で発表された。とりわけ、共通の外交問題と大使館に対する別々の領事館の関係は同一の法律で取り決めるべきであり、それらの法律は両国政府の同意なしでは改定や廃止できない、ということが提案された。1904年5月にノルウェー政府が提案した、それら同一の法律のための提案は、スウェーデン政府の賛同を得られなかった。それらの返答でスウェーデン政府は、スウェーデン政府がその権限を逸脱するのを防ぐことと同じように、スウェーデン外務省はノルウェー領事に対する支配などをするべきであると提案した。 しかしながら、ノルウェー政府はこの提案は容認しがたいとわかり、もしそのような支配が主張されたなら、今後全ての交渉が無意味であると説明した。ノルウェー政府はスウェーデンの要求がノルウェーの主権と両立しないということを主張した。外務大臣がスウェーデン人であり、その提案されたノルウェー人の領事業務がノルウェー人の機関として外国の支配の下に置くことはできなかった。スウェーデン政府による新しい提案は同様に拒絶され、1905年2月にノルウェー人は交渉を打ち切った。それにも関わらず、協定は論外とは思われなかった。単独で領事の課題を解決するための全ての取り組みは失敗した。しかし、完全な連合の原則の上で外交上の問題の共同管理で共同で個別の領事を確立することが試みられる可能性があると考えられた。 国王オスカルの病気の間に摂政に任命された、王太子グスタフは2ヵ国間の交渉を再開する主導権を取った。また4月5日にスウェーデンとノルウェー連合の枢密院において、2つの王国の間の完全な平等に基づく外交事務と領事業務の管理と、連合の存在のための条件として「スウェーデンまたはノルウェーの」共同の外務大臣を(しかし慎重な姿勢を示しながら)、両方の改編の提案した。この提案は1905年5月3日スウェーデンのリクスダーグに承認された。交渉の再開に差し障りの有る障害はあるべきでないため、Erik Gustaf Boström首相は辞職し、Johan Ramstedtによって引き継がれた。しかしながら、提案された交渉は再開されなかった。
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