連合の解体とは? わかりやすく解説

連合の解体

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 14:56 UTC 版)

アラブ連合共和国」の記事における「連合の解体」の解説

このようにアラブ連合共和国アラブ世界影響与えた。しかし第一次中東戦争アラブ側不協和音原因ともなった君主制時代エジプトイラクの、『自分こそがアラブ世界リーダーである』との驕り自負それぞれ共和制になったところで変わっておらず、結局これが連合共和国崩壊させ、さらにはその再建不可能にすることとなる。 連合におけるエジプト圧倒的な指導力と、ダマスカス派遣されエジプト官僚・軍人シリア人に対す傲慢な態度は、シリア官僚政治家、軍人経済人怒りへとつながった加えてダマスカス企業家たちは切望していたエジプト市場への参入連合拒否された上、企業国有化農地改革などナーセル社会主義的改革によるシリア経済混乱損失被った首都カイロ移住させられシリア指導者たちは表向きは国の重要なポスト与えられたものの、ナーセルたちエジプト人の指導勢力から疎外され決定事項に関われず、力の根源であるシリア支持者たちから切り離され無力感味わったアラブ連合1961年9月1959年非合法化されたシリアバアス党によるクーデターのあとで崩壊したアラブ連合からの分離後シリアではなお汎アラブ主義者の間で分離対す異議強く政治的混乱街頭でデモ小競り合い絶えなかった。事態収拾されるのは、バアス党ナーセル支持者、その他アラブ連合賛成する勢力クーデター権力握った1963年である。しかし、エジプトとの連合再建協議開始されたが、シリア側は一度エジプト飲み込まれ経験から警戒心強く同時バアス党クーデターおこったイラクとの三カ国連合の話は不調に終わったイラクの国旗1991年までのもの)はアラブ連合国旗の星を二つから三つ変えたものだが、これは連合崩壊後1963年、エジプト・シリア・イラクによる汎アラブ国家樹立望んでいたイラク・バアス党のクーデターのあとで制定されたもので、汎アラブ国家使われる予定の旗であった三つの星はエジプト・シリア・イラクの三地域意味するが、結局アラブ連合再生はならなかった。 その後1964年から1963年11月イラククーデター起きたイラク北イエメン連合再建協議があっても結局失敗しエジプトは一カ国だけで「アラブ連合共和国」を名乗り続けた。この名がエジプト正式な国名から消えたのは、ナーセル死後1971年のことであった

※この「連合の解体」の解説は、「アラブ連合共和国」の解説の一部です。
「連合の解体」を含む「アラブ連合共和国」の記事については、「アラブ連合共和国」の概要を参照ください。

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