連合の構成とエジプトによる支配
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「アラブ連合共和国」の記事における「連合の構成とエジプトによる支配」の解説
エジプトのナーセル大統領とシリアのシュクリー・アル=クーワトリー大統領は1958年2月22日、両国での国民投票での圧倒的な賛成を経て連合協定に調印した。ナーセルが新しいアラブ連合大統領に選ばれ、カイロが首都となった。また新しい憲法が制定された。 この協定で二つの国家はナーセルを首班とする一つの国として結ばれた。連合共和国は単一国家体制をとっており、ナーセルの卓越した指導力とエジプト地区の人口・政治上の優位により、連合共和国はエジプト主導の国家となっていった。エジプト人の軍事顧問や技術顧問がシリア地区に入り、シリア地区の軍・警察・官僚はエジプト人の管理下に入ったためシリア人の間には憤慨が広がった。ナーセルがエジプトで行っていた一党独裁体制はシリア地区にも拡張され、バアス党やアラブ民族主義運動といった政党は全て解体し翼賛政党に吸収された。これに反対する政治家たちが行動すると政府はこれを乱暴に扱った。ハーリド・バクダーシュが1958年12月、よりゆるやかな連邦国家案を提案すると、政府はバクダーシュとシリア共産党に弾圧を加えた。イスラム主義政党にも同じような弾圧の運命が待っていた。 皮肉にも、新国家アラブ連合は、その支配者らが恐れる共産勢力によって支えられていた。冷戦を戦う同盟国を増やそうとするソビエト連邦は、発足したばかりのアラブ連合に早速武器の売り込みを開始した。この関係はアラブ連合崩壊後も続くこととなった。 アラブ連合は汎アラブ色の赤・白・黒の三色旗を国旗に採用した。ただし中央に二つの緑の星をあしらい、エジプトとシリアという国家の二つの地域を代表させた。これは他のアラブ国家とも共通する配色であり、連合加入前のシリアも緑・白・黒の三色に三つの赤い星というデザインを用いていた。 アラブ連合共和国には、さらにイエメン王国(北イエメン)が1958年に汎アラブ主義に基づき合流した。両国の間では「アラブ国家連合」(United Arab States) という緩やかな国家連合が1961年まで形成されていた。
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