贋貨・悪貨の交換問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 04:13 UTC 版)
さて、先の検勘の際に強引な日程を組んだ背景には、外国との関係の都合上贋貨と正貨の等価交換をやむなく認めたものの、実際に全ての贋貨を同じように正貨と等価で引き換えた場合には明治政府の財政が破綻するのは目に見えていたからであり、その額をなるべく抑制したいという明治政府と貿易関係の維持のために政府の崩壊に至る事態は避けたいと考える外国公使との思惑の一致があったからである。 7月22日に太政官布告が出され、人民は10月末までに官に贋貨を提出するように命じた。だが、一般の人々には正貨と贋貨の区別をつける方法が無く(そもそも簡単に区別がつけられるのであれば、外国人に対する検勘は必要がないことになる)、かつ贋貨の方が大量に出回っているために全く意味が無かったのである。8月11日に大蔵省と民部省が合併されて大蔵省が財政の全権を掌握できるようになると、大隈や伊藤を中心に整理のための方策が検討されることになった。大隈や伊藤は当初、贋金貨100両に対する実際の価値を20両前後と見て、それに多少上乗せをして25両で引き換えることを考えた。だが、これに対してたちまち政府内で反発が噴出した。一般の人民は自分の持っている通貨の真贋を見極められないのに、ある日突然それは贋金だからとその価値を4分の1にされたら人々は大混乱に陥り、各地で一揆や打ちこわしなどの騒ぎに発展する危険性がある。今の明治政府にはこうした一揆や打ちこわしを鎮圧するだけの十分な力はなく、一歩間違えれば政府は崩壊すると言うのである。特に政府が頼りにしていた薩摩藩・土佐藩が自前の贋貨を大量に自己の領民に流通させている可能性があることもその危惧を高めていた。長州藩出身の広沢真臣が薩摩や土佐などの贋貨鋳造藩から罰金を徴収してそれを引換の元手にすることで40両前後にまで引き上げる案も出されたものの、前述のように穏便な処置を望む意見が占める中では実現は困難と思われた。 やがて、政府内で長い協議の末、10月24日に以下の太政官布告が出された。 「悪金ノ儀ハ、兼テ御布令ノ通、府藩県ニテ取調十月中ニ可申出筈ノ所、此度引換ノ道被為立、銀台ノ分ハ格別ノ訳ヲ以百両ニ付先金札三十両ニ御引換被成下、追テ総員数銘々持分等巨細御取調ノ上、猶御詮議ノ品モ可有之候条、御趣意ノ程厚ク相心得可申候……(以下略)」 これによって贋金100両を金札30両に引き換える事を表明するとともに事情によっては将来的に上乗せされる可能性がある事を仄めかす内容とされた。これを受けて11月より順次引換が開始されたが、目標としていた年内完了には至らず、翌3年3月2日、同12月15日と期限を延長しても処理が追いつかなかった。そのため、明治4年1月25日に引換を打ち切り、以後は金銀混合の地金として時価で扱うものとする太政官布告が出された(ただし、同年中は希望者には引換は継続されている)。だが、前述の外国人に対する等価引換が34万両、太政官布告による引換が判明分だけで157万両であり、現在判明している政府発行の悪質な金貨(事実上の贋貨)が381万両であるから、それよりも遥かに少ないことになる。結局は海外への流出分も含めて実質的には明治初期の混乱に乗じて殆どが切り捨てられて地金扱いされたのが実態であったとされている。
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