贋貨発行藩に対する処分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 04:13 UTC 版)
8月24日、薩摩藩が「自訴状」を提出、続いて9月初旬には土佐藩もこれに続いた。これを受けて大久保や西郷、土佐藩出身の佐々木高行らは、薩摩・土佐両藩が自ら自首したこと、両藩は私利私欲のためではなく、維新実現のための軍備調達の必要からやむを得ず行ったことであるとして両藩への恩赦を求めたのである。だが、調査によって贋貨鋳造の事実が無い事が確認されていた長州藩や肥前藩出身者は、自分達は苦労の末に軍費を自前で調達したのに薩摩や土佐が違法手段で調達していたという事実に反発して、両藩から罰金を取ってそれを贋貨と正貨の引換の原資に充てるべきであると主張した。だが、9月13日に薩摩藩からの自訴状が集議院(公議所の後身)で明らかにされると、諸藩の代表からは薩摩や土佐が自らの不祥事を告白した潔さを評価して穏便な処分を求める意見が相次いだ。更に贋貨鋳造を行っていたその他の藩からも後日政府によって摘発された場合の後難を恐れて自訴状を出す藩が相次いだ。そこで翌明治3年4月29日に政府はそれまでに自訴状を提出した藩の贋貨鋳造を赦免し、またそれ以外の藩でも箱館戦争終結以前の贋貨鋳造行為に関してはかつて明治政府と戦った斗南藩(旧会津藩)なども含めてその罪を不問にするとした。この時点でほとんどの藩は贋貨作りを中止している。ところが、筑前藩のみはこの後も金札(太政官札)の偽造に切り替えて贋貨作りを継続し続けた。明治4年7月2日(廃藩置県の12日前)、その事実が発覚した筑前藩は黒田孝高以来の福岡47万石を没収されて事実上改易されてしまうのである。 詳細は「太政官札贋造事件」を参照
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