警察道場時代(1955-1974)
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「指宿市立図書館」の記事における「警察道場時代(1955-1974)」の解説
1955年(昭和30年)4月1日には自治体警察であった指宿町警察署の道場だった建物(十町241番地)に移った。この頃の図書館は県立図書館から移動図書1,000冊と青年文庫50冊を借用し、読書グループの育成を進めていた。同年9月6日には「柳和母親読書グループ」が成立し、図書館はグループの育成に努めた。この活動が評価され、翌1956年(昭和31年)2月24日に鹿児島県図書館コンクール努力賞を受賞、9月5日にはNHKの『茶の間の時間』で同グループが紹介された。また10月17日には、同グループが図書館と協力して文集『柳和』を創刊し、1958年(昭和33年)から『文芸いぶすき』に改題し、指宿市全体の文芸作品集へと発展した。市立図書館は読書グループの育成で優良図書館として1957年(昭和32年)と1958年(昭和33年)に連続で表彰され、1960年(昭和35年)11月22日には東京都立日比谷図書館から職員を招待して読書グループ研究会を開催した。県立図書館の久保田館長は読書グループの活動支援も行っており、特に「柳和母親読書グループ」の毎月の会合に鹿児島市から汽車で駆け付け、読書グループの会員は久保田館長の講話を目当てに休まず参加していたという。当時、読書をする女性は畑仕事を嫌う者と見なされ、「スロッパ」(怠け者)、「ガッシャサァ」(学者さん)などと呼ばれて冷たい視線を浴びたが、図書館で借りた本を隠れて読み、読書グループでの久保田館長の話を楽しみにして生活していた。特に『アルプスの少女ハイジ』は美しい自然と人々の自由の尊さが描かれていたことから、彼女らの心の支えとなっていた。読書が怠けているわけでなく、農作業にも役立つものとして住民に受容されたのは、アイリス栽培で現金収入を得て指導的農家になる女性が現れるようになってからであり、この時代から10年先のことであった。 1961年(昭和36年)5月20日、図書館は敷地内で建物を移動した。この建物は木造平屋建てで床面積は100.65m2であった。この頃、図書館は指宿市民の意識に封建制の名残が認められると指摘し、これを打破するためにも不読者層の開拓を目標とした。具体的には女性の読書グループや既に風前の灯火となっていた青年学級参加者、次世代を担う子供を対象に読書普及を推進した。当時の蔵書数は9,400冊で、これに県立図書館からの貸出文庫を合わせて10,100冊が館内で利用可能であった。なお当時の郷土資料は50冊にすぎず、しかもそのほとんどは南部九州や鹿児島県を対象とした資料で、指宿市に関する図書はごくわずかであった。職員は5人で、館長を含む2人が兼務という状態だったが、指宿市今和泉支所に分館を置き、巡回文庫の配本所を27か所設置していた。配本所の児童図書は親子20分読書に利用することを前提としたものであった。1963年(昭和38年)度の本館の利用者数は11,431人、本館の貸出冊数は11,856冊、延配本冊数は16,850冊、配本所の貸出冊数は17,606冊であった。1967年(昭和42年)頃から幼児への読み聞かせ活動が活発化した。
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