証明と論駁、数学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 22:32 UTC 版)
「ラカトシュ・イムレ」の記事における「証明と論駁、数学」の解説
詳細は「数学的発見の論理―証明と論駁」を参照 ラカトシュの数学の哲学はヘーゲルやマルクスの弁証法、ポパーの知識の理論、数学者ポーヤ・ジェルジの著作に影響を受けている。 1976年に出版された「証明と論駁」は4章からなるがそのうち前3章を1961年に書かれた博士論文「数学的発見の論理に関する論考(Essays in the logic of mathematical discovery)」に基づいている。しかし第1章は「British Journal for the Philosophy of Science」に掲載された際の「証明と論駁」からラカトシュ自身によって修正が加えられている。それは主として数学の授業として設定された架空の対話から始まっている。そこに登場する生徒たちは位相幾何学のオイラーの多面体定理を証明しようとしている。オイラーの多面体定理とは多面体の性質に関する定理で、具体的にはどんな多面体であってもその頂点の個数Vから辺の本数Eを引き、面の枚数Fを足すと2になる(V-E+F=2)というものである。この対話は数学者たちが歴史的に推論に対して提供しようとし(たが繰り返し反例によって論駁されてき)た証明の実際の流れを示すという目論見のもとに書かれた。しばしば生徒たちはラカトシュの広範な補足説明で言及されているコーシーのような有名な数学者に言い換える。 ラカトシュが立証しようとしたことは、非形式的数学のいかなる定理も決定的でも完璧でもないということである。これはつまり、一つも反例の見つかっていない定理ですら究極的真理ではありえないということである。ひとたび反例、つまりその定理と矛盾するその定理で証明できない存在が見つかると、定理は修正され、ことによってはその有効範囲が広がる。これは、論理及び証明と反駁の過程を通じて人類の知識が積み上げてきたやむことのない行状である。(しかしながら数学のある分野で公理が与えられた場合に関して、その公理からの証明はトートロジー、つまり論理的に正しいとラカトシュは主張している。)[要出典] ラカトシュは、数学的知識は全体としてヒューリスティクスという考えに基づくと提言している。「証明と論駁」では「ヒューリスティック」という概念はあまり展開されていないが、ラカトシュは推論の証明や反駁を見つけるためのいくつかの基本的な法則を与えている。彼は数学での思考実験は推論や証明を発見するための正当な方法だと考え、自身の哲学を「疑似-経験主義」と呼んだ。 しかしながら、彼は数学者の社会をどの数学的証明が妥当でどの数学的証明がそうでないかを決める弁証法の議論と見なしてもいた。そのため、フレーゲやラッセルの論理主義において優勢な、証明を簡素で「形式的」に妥当な術語によって定義する、証明の形式主義の構想には根本的に賛成できなかった。 1963年から1964年にかけて初めて「British Journal for the Philosophy of Science」が出版されたことで、「証明と論駁」は後続する数学の哲学の作品に影響を与えたが、ラカトシュの形式的証明に対する強い非難に賛成する者はほとんどいなかった。彼は生前、数学の哲学の領域に戻って自身のリサーチプログラムの理論を適用することを計画していた。ラカトシュ、ウォーラル、そしてエリ・ザハル(Elie Zahar)はアンリ・ポアンカレの1893年の論文 を利用して、批判者たちが気づいた大きな問題の一つ、「証明と反駁」で描写された数学的研究の様式は、ほとんどの場合現代の数学者の実際の活動に忠実には表れないということに対して回答している。
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