血盟団・血盟団事件の性格
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「血盟団事件」の記事における「血盟団・血盟団事件の性格」の解説
血盟団のメンバーは、井上日召以下、大洗組 (古内栄司、小沼(おぬま)正(しょう)、菱沼五郎、黒澤大二、照沼操、堀川秀雄、川崎長光)、東京帝大グループ (四元義隆〈法学部〉、池袋正釟郎〈文学部〉、田中邦雄〈法学部〉、久木田祐弘〈文学部〉)、京都グループ (田倉利之〈京都帝大文学部〉、森憲二〈法学部〉、星子毅〈法学部〉) とその他 (須田太郎・国学院大学神学部生) の計16名である。 血盟団員の中で重要な役割を果たしたのは、大洗グループ内の古内と東京帝大グループの四元の2人である。また、血盟団員ではなく事件にも直接の関与はできなかったが海軍将校の藤井斉は重要な役割を果たした人物である。藤井は、元来実力行使に慎重だった日召をテロリストに仕向けた張本人であり、東京帝大グループや京都グループ、海軍将校と井上を結びつけ、大洗の小さなグループに過ぎなかった血盟団をより広域に活動するグループへ変貌させることに大きく寄与した。 血盟団は井上の思想に強く感化されたカルト集団だと言える。また、井上の思想の底流にあるのは、ある種の仏教的神秘主義である。田中智学が創始した日蓮主義を基本として、仏教的神秘主義と、皇国思想・国家改造に対する熱望が合わさって、井上日召が独自に思想形成したものであると言える。 井上の思想には、田中智学からの影響が明白である。実際、井上の思想形成の初期段階で大きな影響を与えたのが、田中による『日蓮上人乃教義』であり、この書物は井上だけでなく古内栄司にも大きな影響を与えた。 ただ、井上の思想の論理が粗雑であることは否定しがたい。井上は若いときから、代表的な国家主義者 (田中智学、北一輝) の著書を読み、主唱者 (例えば、北一輝、上杉慎吉、大川周明、安岡正篤) のもとを訪ねている。例えば、井上は1924年に1度上京していた時期に北一輝の『日本改造法案大綱』を読んで、北に会いたいと思い北のもとを訪ねている。また、大川周明のもとを訪ねた時には、人はいくらでもいるから、国家革新には金が一番重要だ、と言われて腹を立てたこともあった。大川の大アジア主義が、白人を追放してアジアを解放するという考えであり、差別主義的であると思われたので、大川からも得るところはなかった。 結局は彼らの主張に共感できず、最終的に自身の思想を理論化することを放棄した。井上の興味の中心は実力行動であって、理論的な話は空虚であると考えて興味を持たなかった。 一方で、血盟団のメンバーが思想的に一枚岩だったというわけではない。たとえば、権藤成卿に対する評価は団員の間で大きく割れていた。権藤の思想は、「社稷(しゃしょく)」という古代中国の概念を日本に当てはめた農本的国家主義思想で、それに最も共感したのが四元だった。また、血盟団ではないが藤井斉も強く共感した。 しかし、池袋は権藤には若干懐疑的であり、国家社会主義には反対、権藤の漸進主義にも反対、極端な天皇主義者でいわゆる「日本精神」に影響された小沼は「社稷」にはまったく反対だった。 井上たちに、要人暗殺後の国家改造計画の具体策は全くなかった。むしろ、そのようなものを計画することを積極的に放棄していた。彼らの論理は、自分たちがテロによって要人を殺害し捨石になることで、後続の国家改造の先鞭を付けたいという単純なものである。 したがって、血盟団事件自体はクーデター計画でもその未遂事件でもなく (事件の直前には、井上自身は単なるテロではなくクーデターを指向していたが、それに同調する血盟団のメンバーはいなかった)、要人暗殺というテロ事件以上ではない (ただし、急進的ファシズムと見なすかはこれとは別の問題である)。 血盟団事件は昭和初期から始まった超国家主義者によるテロ事件の嚆矢として知られ、政治学の分野などでもしばしばその基点として扱われる。典型的には丸山真男による超国家主義の研究があり、日本のファシズムに関する古典的研究である丸山による『日本ファシズムの思想と運動』では全体で3期に分けられた日本のファシズム運動期間のうちの第2期 (急進ファシズムの全盛期) の起点として血盟団事件がとらえられている。
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