虎杖丸の曲
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10月、東京の上野公園で拓殖博覧会が開催される。京助は、来場者に日本の少数民族のあいさつや日常語を教えるアルバイトをしながら、参加していた樺太アイヌたちに聞き取り調査を行い、サハリンで採集したユーカラ「ハウキ」などに訳注をつけることができた。ここで出会った日高のシウンコツ(紫雲古津)村の鍋沢コポアヌからユーカラの中でも長大な「虎杖丸の曲(クズネシリカ、クトネシリカ)」の存在とそれを語れる盲目のユーカラ名人のワカルパを教えられる。京助が上田万年に相談すると、上田はポケットマネーで旅費を出してくれた。1913年(大正2年)7月、京助はワカルパを東京に呼び寄せる。約1か月の滞在中に14篇の2万行の詞曲と10冊1千ページにのぼる口述を筆録したが、ワカルパの故郷でチフスが発生、村人から祈祷を頼まれたワカルパは8月末、帰郷。ワカルパは村人たち一人ひとりに祈祷を行ったあとチフスに倒れ、12月7日に亡くなった。京助が彼の死を知ったのは年明けのことだった。 一方、1912年には白瀬矗の南極探検に参加した樺太アイヌの山辺安之助(以前より京助と面識はあった)が帰国した際に、山辺の口述する半生を筆記翻訳し、翌1913年に『あいぬ物語』のタイトルで博文館から刊行した(上下2分冊)。 1918年(大正7年)北海道調査旅行中に金成マツ宅で知里幸恵と知り合う。「ユーカラは値打ちのあるものなのか」と問う幸恵に京助は貴重な文学だと熱っぽく説いた。アイヌ語と日本語に堪能な幸恵を女学校卒業後に東京に呼ぶことを考え、ノートを送ってユーカラのローマ字筆録を勧めた。幸恵は持病の心臓病が思わしくなかったが、1922年(大正11年)5月に上京、京助宅に寄寓する。幸恵のノートをもとに『アイヌ神謡集』出版の話が進んでいた。京助は今までわからなかったアイヌ語の文法を幸恵に解説してもらい、「頭脳の良さ、語学の天才」「天使のような女性」と絶賛した。このころ、京助の妻の静江は生活苦や相次ぐ子供の死(#家族 参照)から精神を病んでおり、四女の若葉を幸恵が世話することもあった。静江の姉が引き取って離婚させる話も出ていたが京助は「とんでもない。私がもらったんだから」と一蹴、妻に対する心配りはなかった。幸恵は『アイヌ神謡集』を書き上げ、9月18日、19歳3か月の短い生涯を閉じた。 1923年(大正12年)ヌッキベツのユーカラ名人黒川ツナレを訪ねる。亡くなったワカルパは「虎杖丸の曲」は途中までしか知らないので黒川ツナレを訪ねるとよいと言い残していた。しかしツナレは危篤状態で床についており、家族から面会を断られる。京助は何度も頼み込み、見舞いだけならと通される。ツナレと対面した京助はアイヌ語でツナレを称える挨拶をすると、ツナレは天井から吊るした帯につかまって体を起こし、「虎杖丸の曲」を語り始めた。行きつ戻りつしながらユーカラを語るツナレの元に村人が集まり「そんなものをツナレのユーカラとして世に残しては恥ずかしい」と京助の筆を止めようとしたが、ツナレは手を振って書き残してくれと言った。ツナレによってワカルパの「虎杖丸の曲」は途中ではなく完結していたことが判明したが、京助の強引な手法はのちに厳しく批判された。
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