虎斑竹保護の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 07:05 UTC 版)
「トラフダケ自生地」の記事における「虎斑竹保護の歴史」の解説
真庭地域に散在する虎斑竹は古くから有名であったようで、本草学者の松岡恕庵が1717年(享保2年)に著した『怡顔斎何品』の「竹品」や、寺島良安が1717年(正徳2年)に編纂刊行した『和漢三才図会』の中でも既に記載があり、主に筆などの工芸品に使用されていたという。特に久世三坂の虎斑竹は地域の里謡に、〽 山家なれども三坂は名所、柴竹、斑竹、虎斑竹、と唄われるほど知られていた。 このような希少価値のある竹であるため、当時は濫伐が頻繁に行われ、東側に隣接する米来村目木(めぎ)の虎斑竹は全滅してしまうなど問題になったが、当地久世の領民から早川代官と呼ばれ慕われた早川正紀によって虎斑竹の伐採が1791年(寛政3年)に厳しく禁じられた。 今日の天然記念物に指定されている三坂下瀬戸の虎斑竹の竹林は留山として保護されるようになり、当地の庄屋森本助四郎を番人として置き、毎年米5斗2升の扶持米を支給して監視に当たらせ、以後、明治維新まで竹林への一般の出入りを禁じさせていた。 しかし明治に入り番人がいなくなると再び濫伐が始まり、虎斑竹は絶滅寸前になってしまう。津山市出身の菌類分類学者川村清一は岡山のトラフダケを研究し、黒い斑紋は固有の細菌感染によるものであることを明らかにし、その内容は1907年(明治40年)の東京帝国大学紀要に記載された。これにより多くの植物学者にトラフダケの存在が知られるようになり、トラフダケの希少性を認識した松村任三、伊藤篤太郎、白井光太郎、三好学といった当時の日本国内の植物学の権威者らにより、岡山のトラフダケの保全を訴える建白書が1911年(明治44年)に内務省へ提出された。これは1919年(大正8年)に「史蹟名勝天然紀念物保存法」が公布される8年前のことであり、現、真庭市域のトラフダケ自生地の3か所は1924年(大正13年)12月9日に「虎斑竹自生地」として国の天然記念物に指定された。 宿主の竹は当地で通称大名竹(ダイミョウチク)と呼ばれる業平竹(ナリヒラダケ)と当初は鑑定されていたが、のちに疑問が呈され1950年(昭和25年)に竹の専攻学者である室井綽による調査が行われヤシャダケであることが確定した。
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