虎杖小学校での実践
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1967年(昭和42年)、京都府竹野郡の丹後町立虎杖小学校に赴任した。虎杖小学校は、わずか十余年のうちに校区の5つの集落のうち4集落が離村・廃村となった、丹後半島の中でもとりわけ山深いへき地にあり、当時の虎杖小学校の児童数は全校生徒38人、教員5名であった。池井は2年生5人と3年生3人の複式学級の担任となり、この時2年生だった生徒が卒業する1972年(昭和48年)3月まで勤務した。 虎杖小学校では、郷土の現実を見据え、過疎問題を直視したフィールドワークを実践した。等高線について学ぶ授業には、実際に等高線30m地点の生徒の家から等高線200メートル地点、300メートル地点、400メートル地点に住む生徒の家まで歩き、どこの田が良いかを中心に話し合ったりと、現地調査をする中で等高線の問題は離村問題にかかわることを子どもたちにつかませるなどの実践を行った。また、子どもの作文指導を重視する生活綴方教師として、「だんじ」と題する学級文集を子どもと一緒になって編集し発行した。この文集は当時の丹後町の山村に住む子どもの生活がとてもよくわかるものとなっている。なお、「だんじ」とは虎杖の別名である。 郷土教育に精力的にとりくむかたわら、池井は、衰退する地域に財政的な援助が期待できない、行財政的に差別されている社会構造を直視し、この課題に、児童や地域住民とともに立ち向かうことを目指した。池井の着任を機に展開したへき地の不平等の是正を求める運動のいくつかは実を結び、運動場を拡張し地域住民と共同で運動会を実施することや、温かい学校給食の提供、レントゲン車の導入などを実現させた。そうした児童の学校生活の充実と並行して、三山の住民たちと「暮らしを守る会」を結成し、住民とともに要求をまとめ、三山住民が田畑を所有していた碇高原へ上る道の拡幅と舗装、公民館の建設、便所の改良、盆踊りの再開など地域住民全体の生活環境の改善も実現していった。なかでも池井が同校を去った3年後の1975年(昭和50年)に実現した三山集落住民の三宅地区への集団移転は、行政当局との条件保障交渉の上に地域の分断を防ぎ、全国でも稀な好条件での離村を成し遂げた画期的事例として広く知られる。 池井は、とりわけ離村が進み集落に1軒だけ残された家にクラスの子どもたちを連れて行くことで、衰退地域の過酷さに「同情」ではなく「共感」することを重視し、へき地の暮らしを共同で守り抜こうとする地域運動のきっかけを育んだ。へき地の差別を許さない認識を育て、山々を子どもたちと歩き回って山菜や銀杏を採り、ドジョウの養殖や、鮎の越冬試験など創意工夫に富んだ実践を行った。
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