英雄主義と近代リベラル社会の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:25 UTC 版)
「自殺攻撃」の記事における「英雄主義と近代リベラル社会の対立」の解説
『反西洋思想』によると、すべての近代ヨーロッパ思想の中で、非西洋の知識層に最も受容されたのはドイツナショナリズムだと考えられる(例えばナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)の汎ゲルマン主義は、バース党(アラブ社会主義復興党)の汎アラブ主義へ多大な影響を与えている)。その理由としてはドイツのナショナリズムが、近代西洋の普遍性の主張に反発するものだったことが挙げられている。 「西洋」または民主主義の「凡庸さ」に対する嫌悪は、右翼・左翼の両方ともが持っており、それは多くの知識人がスターリン、毛沢東、ヒトラー、ムッソリーニといった指導者を支持した動機の一つだった。民主主義の西洋(オクシデント)に足りないのは「犠牲」や「英雄的行為」であり、毛沢東やスターリンと違って民主国家の政治家たちは「偉大さへの意志」に欠ける、という考えが存在していた。自由民主主義は、商業国に最適な政治制度であり、競争し合い、利益の相違は交渉・妥協を通じて解決することが前提とされたシステムである。当然、そのような制度は英雄的ではなく、反民主主義からは「卑劣」「軟弱」「凡庸」「腐敗」等と見なされてきた。 実際には民主主義と戦争の相性は悪くなく、近代史では、民主主義国家が独裁政権にことごとく勝利している。しかしアレクシ・ド・トクヴィルの見解によると、民主主義下の市民(ゾンバルトの言う「ブルジョア」や「商人」)は、生命をかけて戦闘することを簡単には受容しない。この見解は、20世紀初期のドイツの排外主義者のような、反民主主義者・反西洋主義者も同様と言える。それでいて彼らはトクヴィルと違い、民主主義国家の「無関心や善意」を、平和の源ではなく退廃の表れと見なす。 自由民主主義や資本主義は、「英雄的」信条とは異なり、自由思想に近い。観点によっては、リベラル社会は「凡庸さ」を奨励さえしている。ナチス・ドイツの国家主義者アルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルックは、リベラル社会では自由が与えられ、「際立った人生よりもありふれた日常」に重きが置かれると見ており、その点ではトクヴィルも類似している。すなわちリベラルな資本主義国家では、大多数の人々は「普通の生活」を送る。ピューリタンの伝統に則り、リベラルは普通に生きることを受け入れた。そして17世紀のオランダ絵画やイギリス文学(ジェーン・オースティンの小説)が描いたように、凡庸な日常生活にも威厳があり、それは嘲笑するのではなく大切に育むべきだという考えも確立されていった。 しかしこれは、「英雄の勇気」や「栄光」を集合体のための代表行為と見なす人々にとって、納得できない発想だった。結束主義(ファシズム)はその理由から、凡人に魅力的だった。その理由は、優秀な美徳や精神性を誇る「スーパー国家」や「スーパー人種」、「スーパー宗教」に属しているというだけで、「凡人でもつかの間の栄光を垣間見ることができたから」とされる。人間の貪欲さ・不正から「浄化」された理想世界実現のための自己犠牲は、凡人が英雄的気分を味わう方法となっている。彼らは快適主義下で暮らすよりも、「崇高な理想」のために、「荘厳さ」の中で死ぬことを選ぶ。そういった壮絶な死は、英雄的行為と見なされる。また、全体主義政権下で暮らす人間にとっては、「英雄的な死」こそが、個人として選べた唯一自由な行動でもあった。
※この「英雄主義と近代リベラル社会の対立」の解説は、「自殺攻撃」の解説の一部です。
「英雄主義と近代リベラル社会の対立」を含む「自殺攻撃」の記事については、「自殺攻撃」の概要を参照ください。
- 英雄主義と近代リベラル社会の対立のページへのリンク