胡錦濤によるラサ戒厳令布告
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「チベットの歴史」の記事における「胡錦濤によるラサ戒厳令布告」の解説
詳細は「胡錦濤#チベットでの活動」を参照 1988年12月、チベットとの平和的対話に積極的であった胡錦濤がチベット自治区党委書記に就任する(〜1992)。 1989年1月24日にパンチェンラマ10世は、中国政府の用意した演説原稿を無視し「「チベットは過去30年間、その発展のために記録した進歩よりも大きな代価を支払った。二度と繰り返してはならない一つの過ち」と自説を述べ、中国政府を再度非難した。その4日後の1月28日、死去。暗殺説もあるが、中国政府は心臓麻痺によるとしている。 1989年2月17日の旧正月、チベット国旗が、ジョカン寺に、2月20日には市内16箇所に掲揚された。 1989年3月5日、ラサ市内で数百人がデモ行進を行い、チベットの国旗を掲げて独立を主張した。武装警察は発砲し、無差別大量殺戮を強行する。翌3月6日も、チベット人はデモ行進を行い、参加者は数千人にのぼり、中国銀行、警察署、官公庁の建物が襲撃された。3月6日夜から中国武装警察が、チベット人の各家庭を襲撃し、扉を叩き壊して住民を殴り倒し、子供や老人を銃殺しもした。 翌1989年3月7日、胡錦濤はラサに戒厳令を布告する。これは中華人民共和国史上初のことだった。会合、行進、陳情、請願、集会が禁止され、武装警察によるチベット人への暴行が展開され、中国系ジャーナリストのタン・ダーシェンによると、400人が虐殺され、数千人が負傷し、3000人が逮捕された。 欧州議会は1989年3月15日に中国によるチベット人抑圧について非難決議を決定する。イタリアは1989年4月12日に非難決議採択。ラサ戒厳令は1990年5月1日まで続いた。 詳細は「六四天安門事件」を参照 ラサで戒厳令が布告された一月後の1989年4月15日に胡耀邦が死去すると、翌16日から北京の大学生を中心に追悼集会が開かれてから、共産党の腐敗と民主化を訴えたデモとストライキが行われるようになる。21日には10万人を超え、5月に入ると中国全土でデモは50万人規模となり、5月19日、北京に戒厳令が布かれ、5月23日にはデモは100万人規模となる。6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、中国軍が発砲を開始、デモ隊を鎮圧する。死者数は不明だが、数千にのぼるともされる。この事件を受けて、西側諸国は中国に対して経済制裁を実施。武器を持たぬ市民への「虐殺」と言える武力弾圧に対して譴責を発表し、G7 による対中首脳会議の停止、武器輸出の禁止、世界銀行による中国への融資の停止、日本からの対中借款停止などの外交制裁を実施した。 胡錦濤は、チベット自治区の最高責任者にあった4年間、分離主義の弾圧と経済建設推進政策を実行した。胡錦濤によるチベット独立運動の弾圧は、北京政府に評価され、のち中央政府幹部に昇進する理由となったともいわれる。一方、チベット人からは胡錦濤は弾圧の当事者として以後糾弾され続ける。 1989年10月、亡命中のダライラマ14世がノーベル平和賞を受賞。「独立」にかわり「真の自治」を求めることで妥協をはかる ストラスブール提案を提示。中国は抗議。12月10日、ダライラマ法王はオスロで演説を行った。法王はチベットの独立を放棄し、中国国内での高度な自治を要求し、武力を用いずに平和的な問題の解決を主張した。ダライラマ14世は翌年から積極的に各国を訪問する。
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