チベットでの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 11:45 UTC 版)
1988年6月、チベット自治区の伍精華党委員会書記が重病のため辞職した。趙紫陽総書記は2つの貧しい貧困地域(甘粛省・貴州省)で働いていたことを理由に、胡錦濤をチベット自治区党委員会書記に指名した。同年12月には書記に就任したが、当時チベット自治区の区都であるラサではデモ活動が起こっていた。1989年1月19日にラサにて公開裁判を行い、前年3月に起きた抗議運動に加わって逮捕された僧侶に死刑判決を含む重罪判決を言い渡した。その際僧侶の頭を押さえるなどチベット民衆に対する見せしめとなった。その直後の1月28日にパンチェン・ラマ10世が急死したが、多くのチベット人は孟宏偉らとともに胡がそれに関わったと信じている。同年3月には抗議運動が大規模なデモ行進にまで発展したため、胡はラサ全市に3月8日午前零時から戒厳令を布告した。戒厳令布告は天安門事件に先立ち中華人民共和国史上初めてのことであった。1989年6月に天安門事件が勃発した際も真っ先に支持した地方政府指導者の一人であり、党中央から注目された。UPI通信社のマーティン・シーフはロシアのウラジミール・プーチンと比較して「どちらも異論を抑えつける経験の豊富さでトップにのし上がった有能でタフな権威主義者」と評した。 しかしこの頃、胡本人は自身の将来に対し悲観的であることを友人に話している。キャリアに行き詰まり、今の地位である地方の党書記以上に出世することはないだろうと胡は思っていた。彼は、チベット自治区で貴州省の時と同じように実績を残すことができず、党の高級幹部になることは難しいと考えていたため、チベットでなく北京で過ごすことが多かった。しかし、胡はチベット自治区党委員会書記在任中も宋平と連絡を取り続けており、このことが将来に大きく影響を及ぼす。
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