チベットに対する元朝、明朝の措置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 01:20 UTC 版)
「雍正のチベット分割」の記事における「チベットに対する元朝、明朝の措置」の解説
ここで、「雍正のチベット分割」によって成立した、清朝によるチベットの行政区画の特徴を明らかにするため、元朝、明朝のチベットに対する措置を見てみよう。 元朝期、チベットは、2005年現在「西蔵」に区分される領域と、その東部をあわせた全域が「宣政院」の管轄地「吐蕃」として一括された。宣政院はチベット仏教サキャ派の長が就任する「帝師」「国師」を長官とし、「仏教の僧侶と信者および吐蕃の領域をつかさどる(掌釈教僧徒及吐蕃之境而隷治之)」ための機関である。チベットでは、各地の諸侯がサキャ派(1354年からはパクモドゥパ)を通じ、規模の大小に応じて万戸、千戸などの称号を受けた。この時期、チベット全域が「吐蕃」として一括されており、後の西蔵部分のみをチベットとし、東部地方を「内地」に組み込むような区分は行われていない。 明朝の初期、初代洪武帝は、明に使者を派遣してきたチベット諸侯に対し、元朝と同様、規模の大小に応じた衛所の称号を与えた。この称号の授受により、チベット諸侯が明朝皇帝の軍事指揮権に服し、同等の称号を有する明朝の軍人と同じ職務を担ったわけではなく、単なる名誉のランク付けにとどまる。明が遣使してきた諸国、諸民族に対し行った冊封において、民族単位で統一政権を樹立した朝鮮、安南、琉球、日本(足利義満)では各国の最高実力者が代表して「王」号を受けたのにたいし、統一政権を樹立せぬまま明と通好した女真、チベットなどの有力者たちは、個別に衛所の各級の称号を受けたのである。洪武帝によるチベット諸侯の冊封においては、「烏思蔵衛(うしぞうえい)」、「朶甘衛(だかんえい)」にそれぞれ指揮使司、宣慰使が1つずつ、以下、チベット全土であわせて元帥府1、招討司1、万戸府13、千戸所4などが配置された。ここでいう「烏思蔵」とはチベット語「ウー・ツァン(dbus gtsang)」を音写したもので、今日の西蔵部分の中核部を占める中央チベットを、「朶甘」とはアムドとカムの略称「ドカム(mdo khams)」を音写したもので、今日の西蔵の北部・東部と青海・甘粛・四川・雲南の諸省に分割されたチベット東部地方を指す。のち、永楽帝の時、中央チベットを制圧するパクモドゥパをはじめとする有力勢力が冊封をうけ、三大法王、五大教王等と呼ばれたが、後の清代にみられるような、「烏思蔵」のみをチベットとみなし、「朶甘」部分を中国の「内地」とみなすような区分は、この時期にも、行われていない。
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