チベットと文化大革命とは? わかりやすく解説

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チベットと文化大革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 10:16 UTC 版)

チベットの歴史」の記事における「チベットと文化大革命」の解説

チベットにおける文化大革命1966年7月紅衛兵ラサ進駐によって開始された。8月6日には数百人の紅衛兵ジョカン寺(トゥルナン寺)に侵入し1週間わたって徹底的な破壊略奪行った後、この寺院紅衛兵兵舎とした。ジョカン寺1959年以降人民解放軍チベット各地行った破壊略奪対し周辺寺院仏像秘宝保護するための保管庫役割果たしていたが、それら貴重な財宝はこの時点破壊された。その後ノルブリンガそしてラサ全域へと破壊略奪範囲広げていった。周恩来首相命令ポタラ宮13箇所礼拝所のみが人民解放軍により保護された。 ありとあらゆるチベット的なものや、仏像宗教文献破壊された。それは寺院のみならず個人所有仏壇民俗家具も同様である。そして宗教上の祭礼や習慣例外なく禁止伝統的な歌謡民族衣装伝統的な髪型なども全て禁止されチベット語会話以外での使用禁止され毛沢東語録以外チベット語出版物姿を消した。その一方で万枚もの毛沢東写真配布されラサ市内のあらゆる住居飾られた。 1967年4月までに紅衛兵進駐規模数万人へと拡大した。しかし紅衛兵はいくつかに分派し互い反乱分子敵視していた。ついにはラサ市内で紅衛兵同士市街戦勃発した1967年以降シガツェ市ギャンツェ県カンゼ県など、チベット各地衝突発生1968年1月ラサ市衝突では数百人の死傷者出たこうした大規模な武力衝突の中でチベット人多数死傷した。 タムジンといわれる人民裁判僧侶厳しく糾弾された。罪名書いた板を首からかけてラサ市街を引き回され罵倒され殴られ打ちのめされ最後に息を引き取った地主階級貴族階級弾圧され分派した紅衛兵互いに競い合うように逮捕して糾弾した文化大革命1977年終結1959年以前チベット全土に約6000ヶ所あまりの寺院存在したが、その多く破壊され閉鎖されていた。さらに文化大革命残され寺院破壊略奪根絶対象となり、最終的に破壊免れたものは極僅かであった

※この「チベットと文化大革命」の解説は、「チベットの歴史」の解説の一部です。
「チベットと文化大革命」を含む「チベットの歴史」の記事については、「チベットの歴史」の概要を参照ください。

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