総選挙への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 22:02 UTC 版)
全共闘、あるいは、1968年の他の世界の学生反乱においては共通して、拠点の占拠と大衆団交という戦術が採られた。これは当時珍しい現象であり、ヨーロッパにおける19世紀末から20世紀初頭の歴史上のサンディカリスムの定石といえる戦術が冷戦時、突然復活した。「1968年」の問題系とは、民主主義の問題を代議制の機能の問題に縮約することを断固として退け、その代議制から溢れ出すような「政治」の次元が存在することを強調して、既存の政治・社会制度や民主主義の問い直しを行うことにあった。 村上信一郎は、西欧の左翼政党は「1968年世代」の反乱によって大混乱に陥ったが、そのエネルギーの少なくとも一部を吸収することを通して、大きく変貌していった、しかし日本では、「1968年世代」が「企業社会」に飲み込まれていったことによって、従来の左翼政党にはほとんど何の変化も生じず、このことが全般的な「左翼」の退潮に繋がったと論じている。言い換えれば全共闘世代(「団塊」の世代)の多くが、高度成長がピークを迎える頃には、早々と政治の季節を「卒業」して、「企業社会」の主要な担い手となり、欧米諸国のように「脱物質主義的価値」の唱道者にもならなければ、「新しい社会運動」の担い手にもならず、西欧の68年世代とは根本的に異なるコースを辿っていった。 短期的には、1969年12月の総選挙では、時の内閣を支える自民党 が20議席増やし300議席を超えた。一方、社会党は新聞社の当落予想(朝日新聞は±8の118議席)を大きく超えて、約50議席を減らし90議席に転落、大敗した。公明党は25議席から47議席に躍進。全共闘・新左翼勢力と激しく対立した日本共産党も5議席から14議席に躍進し、多党化が進行した。投票率は前回より5.5%減の68.5%に急落した。また、この1969年以降から、無党派層が急増し始め、一方で社会党支持率が停滞を始めた。 社会党のこの突然の支持率の急落に対して、全共闘運動の直接的な影響と関連を見出すものには、石川真澄の言説がある。石川によれば、社会党はこの総選挙に際し、「一部学生の暴力的行動」を全面否定する統一見解を出していた。しかし、下部組織の社青同に新左翼系の勢力を抱え、三派全学連については「各全学連の共通する思想であるトロツキズムと誤った戦術については思想闘争を強め、広範な学生のエネルギーをわれわれの戦列に加えるよう努力する」 という見解を示すなど、共産党と比べ新左翼・全共闘勢力との峻別の度合いが低かった。石川は、社会党のこのような態度がプラハの春や中国の文化大革命など社会主義へのマイナスイメージに繋がる事件に対する曖昧な対応と重なり、社会党支持者層が大量棄権、総選挙大敗、そして社会党離れによる無党派層の増大に結びついたと指摘している。
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