総選挙の敗北と党内対立
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「日本未来の党」の記事における「総選挙の敗北と党内対立」の解説
第46回衆議院議員総選挙公示日を翌日に控えた12月3日、インターネット上にアンケートサイトを立ち上げ「プレ総選挙」というネットアンケートを行ったが、投票された結果は「未来」の主張とは反対の意見が多数を占めるなど、逆風が吹いていた。尚、この投票については、12月3日14:30と20:05に2度、投票結果をリセットし、再度同一の問題が提示されるなどなされており、それに対し、批判の声も上がっている。また、このアンケートに対しては当初、未来の党側が、「そのようなサイトのことは聞いていない」などと声明を出すなど、その杜撰な運営等から、「日本未来の党への悪質ないたずらや妨害工作」などと疑う声もあったが、結果的にはJ-CASTニュースの取材で、この党が行っていた企画であることが判明している。 公示日の12月4日、未来の党は比例代表名簿の順位確定が遅れ、全ブロックの名簿の中央選挙管理会への届け出が締め切り直前までずれ込んだ。党内で直前まで順位付けを巡って対立があったためとされるが、詳しい経緯は不明。選挙中のスローガンは「鉛筆もったら未来の党」。 総選挙には121人の候補を擁立したものの、乱立する第三極の中で埋没、苦戦し、小選挙区で当選したのは小沢と亀井静香の2人のみで比例区を合わせてもわずか9議席に留まった。なお、衆院選に鞍替え立候補をした4人の参議院議員(友近聡朗、中村哲治、姫井由美子、外山斎)が自動失職した。 選挙後、嘉田と小沢の仲は早くも不穏になる。20日、京都で嘉田は小沢と会談し、共同代表に阿部知子、幹事長に鈴木克昌を充て、総選挙で落選した飯田代表代行を続投させる党執行部案を提案した。これに対して小沢系の議員は小沢または小沢に近い議員の起用を求め、嘉田、飯田ラインとの間に齟齬をきたすようになっていった。また嘉田の「身内」でも、滋賀県議会を中心に滋賀県内から嘉田が県知事と政党の党首を兼務することに対する批判が叫ばれるようになってきた。12月19日、20日の両日にわたって行われた滋賀県議会で自民党を中心とする保守系会派から知事か党首のどちらを辞任することを要求された。 24日、首班指名に先立ち両院議員総会が開催され、嘉田から共同代表に阿部、幹事長に鈴木、更に顧問に小沢と亀井をそれぞれ充て、飯田を代表代行に続投させる執行部案が提案された。これに対して小沢系の議員からは小沢共同代表案が提案されたが、嘉田は小沢は党の要職には就けない方針を堅持するとして拒否し、結論を持ち越した。 26日、両院議員総会が行われた。この議員総会は嘉田が開催中止を命令したが、小沢系によって強行され、首班指名選挙で森裕子副代表に投票することを決めた。嘉田、飯田ラインと小沢系の対立は決定的となり、両方に与しない亀井は党内対立を理由に自身は離党を表明するとともに、嘉田、小沢の双方に速やかな解党を勧めた。同日、嘉田は滋賀県庁で会見を開き、人事案が入れられなかったことを理由に、未来の党を分党することを表明した。しかし27日、旧国民の生活が第一に所属する衆議院議員7名と参議院議員8名が「生活の党」に党名を変更して存続、阿部知子衆議院議員1名による政治団体「日本未来の党」が新たに設立されることとなったため、政党助成法上の分割の要件を満たさないこととなり、議員数が5人未満である嘉田・阿部側は政党交付金を受け取ることができないこととなった。仮に政党助成法上の分割(旧党を一旦解散した上で2つの新党を新たに設立する)を行っていれば、嘉田・阿部側も衆院選の得票率に基づき政党交付金を受け取ることができたが、嘉田はこの件について周辺に「党分裂がカネ目当てと思われたくない」と語っている。嘉田は国会議員4名を抱えるみどりの風と阿部が合流すれば政党要件を満たすとして、みどりの風に合流を呼びかけたが、拒絶された。なお、上記の経緯により阿部は比例議員の移籍制限の規定の適用を受けることとなる。この一方で、同じく離党した亀井は独自にみどりの風へ合流している。 12月28日に、団体名を「生活の党」へ、代表者を「森裕子」へ異動する旨を総務省へ届け出た。
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