総選挙における勝利
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「総選挙における勝利」の解説
1924年4月6日、1924年イタリア総選挙(英語版)で国民ブロックと合併した国家ファシスト党を中心とした選挙連合「国民名簿」(Lista Nazionale、LN)が設立され、中道右派の人民党と自由党、中道左派の自由民主党が参加を声明した。LNに参加した3党に共通していたのは反共主義で、左派を主導する社会党を主敵とみなしていた。その社会党はボノーミやムッソリーニに続いてマッテオッティやトリアッティらも離脱したことで党勢衰退が目に見えており、彼らが設立した統一社会党と共産党と票を取り合う状態に陥っていた。他に新たに結党された行動党や農民党、伝統的な小政党である共和党などが野党側に回った。 この選挙における投票率は63.8%(前回選挙は58.4%)、その中で白票を投じた投票者は全体の6%(前回選挙は1%)となった。そうした中でムッソリーニ内閣を支持するLNは有効票の64.9%に相当する約460万票を獲得する圧倒的な人気を見せ、結果的には上記のアチェルボ法の適用を待たずして現政権の続投が確定した。ムッソリーニ政権の経済政策の成功や国威発揚などが国民から高く評価されていることが示され、国王エマヌエーレ3世も「国家の存在を締め付け、衰弱させるくびきを打ち壊した」と賞賛している。「国民名簿」は最終的に374議席を配分され、その中枢たる国家ファシスト党内部では急速な組織規模の拡大から軋轢が生まれるほどだった。ムッソリーニは大規模な党員追放と指導部改組を行って党の引き締めを図り、党書記長職も一時的に単独から4名による合議制に変更された。 対する野党第一党である社会党の得票は惨憺たるものであり、前回得票した約160万票から急落して僅か36万票しか獲得できないという破滅的な惨敗となった。ボノーミ派の社会民主党(約10万票)、トリアッティ派の共産党(約26万票)こそ辛うじて上回ったが、マッテオッティ派による統一社会党(約42万票)にすら追い抜かれる有様であった。 他の新党や協力政党も同じく存在感を示せなかったが、ムッソリーニは圧勝の後も議会政治・多党制を維持することを約束して選挙連合に参加した人民党、自由党、自由民主党と連立政権を組閣している。今や政権内の閣僚の殆どが国家ファシスト党出身で占められていたが、複数の人物が「ムッソリーニは社会党を含めた諸政党との挙国政権樹立を放棄していなかった」と証言している。
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