経歴の概観
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チャールズとアンは、助産術と女性の健康にたいするアンの関心を正当と確認する物語を仕立てた。彼らの物語によれば、彼女はヨーロッパに行き、レステルというフランスの有名な内科医と助産術の訓練をした。彼女は特許医薬品を売り始め、(十中八九、自分の夫および兄弟と共同で)「避妊粉末薬」("preventative powders")や「女性月間薬」("Female Monthly Pills")のような産児制限製品を創作し始め、「レステル夫人」("Madame Restell")の名前で広告をだした。彼女は郵便でこれらの製品を売り、そして家庭訪問をおこなった。これらの「月間薬」("Monthly Pills")が女性が妊娠を終わらせるのに不十分であると判ったとき、レステルは別の解決を案出した。自称医師および薬剤師であった彼女とその夫は外科医になった。あらたな称号は、よりもうかる処置が、投薬が誘発する妊娠中絶を申し出ることにたいする同じ法的刑罰の下で、実行し得ることを保証した。この時代に用いられた妊娠中絶薬はしばしば麦角、甘汞、アロエのようなハーブの混合物であった。これらは、消化管をひっくり返して、流産を誘発すると考えられた。外科的妊娠中絶には、羊膜の破裂、あるいは子宮頸部の拡張、あるいは子宮内断頭さえふくまれた。 レステル夫人は『Herald』のような新聞に、そして『ニューヨーク・タイムズ』にさえ、「女性医師」("Female Physician")として仕事の広告を出した。 レステルが仕事を始めたとき、妊娠中絶はほとんど非合法ではなかった。外科的妊娠中絶のみが禁止されていた。これは胎動初感すなわち、女性が胎動を感じ始めたとき以後のみであった(これは典型的には4ヶ月ころであった)。まもなくレステルの成功は、模倣者と競争を引き寄せ始めた。これはアメリカ医師会(AMA:American Medical Association)の注目を引き寄せ、医師会は1857年から妊娠中絶を終結させる運動を公式に開始した。自分らの主義の支持を集める目的で、アメリカ医師会は最も名高い妊娠中絶医師 レステルを標的にし、そして彼女を敵と見なした。「レステリズム」("Restellism")という用語は妊娠中絶を指す婉曲表現になった。ニューヨークにおける法律のすばやい変更とともに、レステルは、彼女の仕事を終わらせる当局および反-妊娠中絶運動家によってつねに執拗に追跡された。 彼女はまた報道からの反対にもあった。イーナク E. キャンプ(Enoch E. Camp)とジョージ・ウィルクス(George Wilkes)の『National Police Gazette』は、ニューヨークの「犯罪ニュース」("crime news")と、とりわけ盗罪、妊娠中絶および強姦にかんする詳しい記事を報道した。報道範囲はニューヨークに限らず、むしろアメリカとヨーロッパの大都市にひろがった。『ガゼット』は、妊娠中絶をおこなうことにくわえて、「...ほぼ毎日、都市のいたるところで見つかった捨てられた幼児の大部分は彼女の[レステルの]施設から来た」("…most of the abandoned infants幼児 found almost daily throughout the city came from her [Restell's ] establishment")と主張した。 ニュー・ヨーク・サンデー・モーニング・ニューズ(New York Sunday Morning News)のサミュエル・ジェンクス・スミス(Samuel Jenks Smith)のような保守的な編集者らもまたレステルの職業を公然と非難した。1839年7月7日に - 最も古い報道のレステル攻撃 - 彼の社説は彼女の仕事が「...すべての社会秩序の根絶しようとしている」("…strikes at the root of all social order")と非難した。スミスによれば、医師らは、レステルが危険な仕事にかかわっている、「彼女がしていることは患者らの生命を危険にさらすことなくして不可能である」("...what she was doing was impossible without endangering the lives of the patients")と信じた。 しかしこの論争の暴露は男性に限らなかった。女性ジャーナリストらもまた、シカゴのような都市での違法な妊娠中絶に光を当てる内密の行動に関わっていたが、ひとつの例外はシカゴ・タイムズ(Chicago Times)の「"Girl Reporter"」であった。この正体不明の女性は、シカゴ医師会(Chicago Medical Society)のドクター J.H.エザーリッジ(Dr. J.H. Etheridge)、ドクター ジョン チャフィー(Dr. John Chaffee)、ドクター エドウィン ヘール(Dr. Edwin Hale)のような内科医の正体をあばいた。彼女の嘆願にたいして、これらの医師その他は、妊娠中絶を実施し、したがってそういう処置に刑罰を科する1867年のイリノイ州の法令に違反することに同意した。 レステル夫人はニュー・ヨークのいたるところであまりによく知られたので、彼女の公判の写しが『Times』 and the 『Police Gazette』に掲載されたほどであった。彼女は、ニュー・ヨーク・シティーのツアー・ガイドの、ニュー・ヨーク・シティー・アトラクションのひとつとして一覧に載せられた。
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