経歴に関する異説
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上の記述は『中津市史』『大分県史』その他の書の説明と一致するが、誤りである。昌高は開国論、昌服が鎖国攘夷論というのは明治24年(1891年)出版の広池千九郎『中津歴史』の記述を唯一の根拠とするが、広池自身が同書の「引用書目」の項に、史料を見ることができず、二、三の古老に聞いて記しただけ、と書いている。しかしこれを確かめるには、幕末外交に関する根本史料である『大日本古文書・幕末外国関係文書』をひもとけば、明らかになる。 その中に収録されている「中津城主奥平大膳大夫昌服」の幕府宛上書には「交易之儀御許容之方後年太平御安寧之事ニ奉存候」、開国を許せ、とある。ただし、これは『嘉永明治年間録』を写したもので原文ではないが、東京大学史料編纂所には水戸徳川家所蔵の嘉永6年(1853年)の上書の大部分の写しがあり、その中の奥平昌服の上書の全文も近年紹介された(『大分県地方史』194号)。また、一部は『岩波講座日本通史』15巻299頁に掲載されている。そこには、そもそも外国との通信交易は当然のことで、アメリカ、ロシア、イギリス、その他どの国とも交易すべきで、鎖国は今や時代遅れだから廃止すべしと明瞭に述べられている。 なお、奥平壱岐についても、彼が家老職につくのは安政5年(1858年)、昌服から江戸家老に召し出されるのは文久元年(1861年)、文久3年(1863年)の昌服上京にも従い、その意を体して天下三賢侯の一人、宇和島の伊達宗城の子・昌邁を養子に迎えることをすすめたのも壱岐である。江戸藩邸と国元の対立を背景に、国元の攘夷主義の下級藩士の突き上げで壱岐は失脚するが、昌服は自分に付き従って京都に来ている壱岐を江戸に帰らせただけで事態収拾を図っており、昌服・壱岐対立というのも根拠がない。なお、砲台建設だけでなく西洋軍事技術採用などは、国元ではむしろ壱岐がリードした政策である。
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経歴に関する異説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 14:30 UTC 版)
明治維新後、三枝(大隈)綾子とともに茶屋奉公をしていたともいわれているが、小僧時代に修業先で三枝家を見知っていた高村光雲はこれを否定している。 中井弘の妻になったとされるが系図からは確認できない。実家が貧窮した三枝家と違い、武子の父の俊純は「新田官軍」の総帥として戊辰戦争に従軍して、慶応4年(1868年)に越後府知事に任命されているので、武子に中井の妻になる理由も見当たらない。
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