経歴に関する異説とは? わかりやすく解説

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経歴に関する異説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/06 01:24 UTC 版)

奥平昌服」の記事における「経歴に関する異説」の解説

上の記述は『中津市史』『大分県史』その他の書説明一致するが、誤りである。昌高は開国論、昌服が鎖国攘夷論というのは明治24年1891年出版広池千九郎中津歴史』の記述唯一の根拠とするが、広池自身同書の「引用書目」の項に、史料を見ることができず、二、三古老聞いて記しただけ、と書いている。しかしこれを確かめるには、幕末外交に関する根本史料である『大日本古文書幕末外国関係文書』をひもとけば、明らかになる。 その中に収録されている「中津城主奥平大膳大夫昌服」の幕府上書には「交易之儀御許容之方後年太平安寧之事ニ奉存候」、開国許せ、とある。ただし、これは『嘉永明治年間録』を写したもので原文ではないが、東京大学史料編纂所には水戸徳川家所蔵嘉永6年1853年の上書の大部分写しがあり、その中の奥平昌服の上書の全文近年紹介された(『大分県地方史194号)。また、一部は『岩波講座日本通史15巻299頁に掲載されている。そこには、そもそも外国との通信交易当然のことで、アメリカロシアイギリス、その他どの国とも交易すべきで、鎖国今や時代遅れだから廃止すべしと明瞭に述べられている。 なお、奥平壱岐についても、彼が家老職につくのは安政5年1858年)、昌服から江戸家老召し出されるのは文久元年1861年)、文久3年1863年)の昌服上京にも従い、その意を体して天下三賢侯の一人宇和島伊達宗城の子・昌邁を養子迎えることをすすめたのも壱岐である。江戸藩邸国元対立背景に、国元攘夷主義下級藩士突き上げ壱岐失脚するが、昌服は自分付き従って京都来ている壱岐江戸に帰らせただけで事態収拾図っており、昌服・壱岐対立というのも根拠がない。なお、砲台建設だけでなく西洋軍事技術採用などは、国元ではむしろ壱岐リードした政策である。

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経歴に関する異説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 14:30 UTC 版)

井上武子」の記事における「経歴に関する異説」の解説

明治維新後、三枝大隈綾子とともに茶屋奉公をしていたともいわれているが、小僧時代修業先で三枝家を見知っていた高村光雲はこれを否定している。 中井弘の妻になったとされる系図からは確認できない実家貧窮した三枝家と違い武子の父の俊純は「新田官軍」の総帥として戊辰戦争従軍して慶応4年1868年)に越後府知事任命されているので、武子中井の妻になる理由見当たらない

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