組織と議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/06 02:13 UTC 版)
「ウィリアム・ロイド・ガリソン」の記事における「組織と議論」の解説
1832年、ガリソンはニューイングランド反奴隷制度協会を設立した。翌年にはアメリカ反奴隷制度協会の共同設立者となった。同じく1833年、ガリソンはイギリスを訪れ、そこでの反奴隷制度運動を支援した。ガリソンは、反奴隷制度協会がどの政党とも組むべきではないこと、女性も協会の活動全てに参加を許されるべきことを意図した。ガリソンは協会に参加した女性活動家であるスーザン・B・アンソニー、エリザベス・キャディ・スタントン、ルクレティア・モット、ルーシー・ストーンなどの考え方に影響を受けた。女性達の立場は協会員の多数にとっては議論の余地があると見られており、協会内に亀裂を生じた。1839年、アーサー・タッパンとルイス・タッパンの兄弟が協会を離れ、別の団体「アメリカおよび海外反奴隷制度協会」を設立し、女性の参加は認めなかった。この協会の一部がまた離脱して、新しく作られた政党の自由党と手を組んだ。自由党は大統領選挙でジェイムズ・G・バーニーを担いだ政党であった。1840年代の終わりまでに、ガリソンは第3の組織である「普遍的改革の友」の設立を宣言した。この組織のスポンサーと設立者には、傑出した改革者であるマリア・チャップマン、アビー・ケリー・フォスター、オリバー・ジョンソンおよびブロンソン・オルコット(小説家ルイーザ・メイ・オルコットの父)がいた。 一方、1834年9月4日、ガリソンは奴隷制度廃止論者で引退した商人の娘エリザ・ベンソン (1811-1876)と結婚した。この夫婦には5人の息子と2人の娘が生まれたが、息子1人と娘1人は子供の時に死んだ。 1853年、ガリソンはオハイオ州のジョン・ランキン牧師をガリソンの経歴に重要な影響を与えた者と認め、ランキン牧師のことを「反奴隷制度の父」と呼び、ランキンの「奴隷制度に関する著書が反奴隷制度闘争に入る動機になった」と言った。 ガリソンは自分自身を最もはっきりとした、また最も急進的な奴隷制度の反対者と呼んだ。ガリソンの解放運動のやり方は非暴力と消極的抵抗を強調し、追随者を惹き付けた。当時の奴隷制度廃止論者が段階的解放を支持していたのに対し、ガリソンは「奴隷全員の即時の完全な解放」を求めた。 ガリソンと「リベレーター」はボストン婦人反奴隷制度協会の熱心な支持を受けた。この協会は集会を開き、講演会を後援し、アメリカ合衆国北東部中の女性による反奴隷制度ネットワークの力を高めることに貢献した。 ガリソンの演説会に出席していたある者が、奴隷制度はアメリカ合衆国憲法で守られていると反論した時、ガリソンはそれが真実ならば憲法は燃やしてしまうべきだと答えた。ガリソンはフレデリック・ダグラスとの付き合いが長かったが、憲法の価値については見方が分かれていた。ガリソンは憲法のことを「死との盟約であり、地獄との同意書」と呼んだ。ダグラスは元々、ガリソンの憲法に対する反感を共有していたが、後にライサンダー・スプーナーやゲリット・スミスとの議論によって、憲法は奴隷の解放を義務付けていると考えるようになった。ガリソンは憲法を奴隷制度を肯定するものと言って公衆の面前で焼き捨てたのではあったが。二人は袂を分かち、1870年代まで和解しなかった。 ガリソンが繰り返し反奴隷制度の見解を表に出したことで、自身を危険に曝すことになった。ボルティモアで収監されたこと以外にも、ジョージア州政府はガリソンの逮捕に5,000ドルの賞金を掛けた。また殺害するという脅しを何度も受けた。 南北戦争の前の歴史で最も議論を呼んだ出来事の一つは反奴隷制度協会の講義から起こった。1835年の秋、協会はイギリスの激しい奴隷制度廃止論者であるジョージ・トンプソンを招き講演を依頼した。トンプソンが出席できなくなったので、ガリソンが代役を引き受けた。無法な暴徒が講演会場に押しかけてトンプソンを探した。市長と警察はボストン婦人反奴隷制度協会のメンバーに会場から立ち去るよう説得した。しかし、暴徒はガリソンの姿をボストン中の通りに探し求めた。ガリソンはリンチを受けるのを免れ、レブレット通りの刑務所で夜を過ごした後、数週間ボストンを離れた。 ガリソンは、時には「リベレーター」の随筆欄に他者の書いたものを載せた。1856年に載った14歳のアンナ・ディッキンソンの書いたものは奴隷の解放を訴える情熱の込もったものだった。
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