糸商人と金融による資産拡大
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「星野長太郎」の記事における「糸商人と金融による資産拡大」の解説
寛文7年(1667年)の寛文検地では、星野家は4代彌兵衛(七郎右衛門半六;寛永20年(1643年)生〜享保3年(1718年)没、75歳)が水沼村の村役人を務め、名請高は5反1歩(1,500坪、いわゆる五反百姓出ず入らずの規模)で村内では規模18位であった。享保7年(1722年)以後は年番交替で名主になることがあったが世襲ではなかった。星野家が糸商人として活動を始めたのは蚕糸業が上州全域に拡がった享保期(1716年~1735年)前後とされる。星野家5代(戒名院号自星院、明和3年(1766年)没、推定75歳)の時期にあたる享保期には星野家は自らが在方の糸商人(在郷商人)であった。同時に絹市場に隣接した水沼村の立地条件を生かして、生糸や繭を山中の農家から買い集めて市の立つ大間々や桐生へ売込む在郷商人(農民身分の商人)に資金を提供する金融で台頭した。金融業を本格的に営むようになり、星野家6代半兵衛(七郎右衛門朋明;宝永7年(1710年)生〜寛政7年(1795年)没、85歳)の時には資産を著しく増殖させた。宝暦・明和期(1751年〜1771年)には6町3反余(18,900坪)の耕地を保有する村内随一の有力農民となり初めての黄金期を迎えた。7代新七(七郎右衛門邦矩;天明8年(1788年)没、推定50歳)が家督を引き継いだが、6代半兵衛の方が長生し村人からは大御所様と呼ばれた。 星野家は天明期(1781年〜1788年)には、8代耕平(七郎右衛門朋存;宝暦6年(1756年)生〜天保元年(1830年)没、74歳)が百姓代を務めていた。文化期(1804年〜1817年)には名主役を独占した。この時期に幕府領郡中取締役に加えて足尾銅山吹所世話役の役儀も拝命した。続く文政期(1818年〜1830年)には幕府の役儀に注力するため弟星野半平(7代新七の二男で分家した「下の新宅」)に水沼村名主を譲り自らは年寄となった。叔父星野文造(6代半兵衛の二男で分家した「上の新宅」)らが百姓代を務めた。文政13年(1830年)には年寄で持高は77石5斗余、一家は五人家族、抱・召仕・下男・下女など含めて総数34人。経営において地主経営は副次的であり、金融に加えて酒造が事業の柱となっていた。この時期に積極的な事業拡大と多角化が図られた。桑樹培育売却の他、鉱山経営、廻船業など多岐に及んだ。盛時には新造の千石船など6隻を有し、仙台藩領石巻を根城に穀物、牧馬、海産物、魚肥等の売買や輸送を手掛けた。酒造(造り酒屋)は文化10年(1813年)に勢多郡江木村(後の桂萱村、現前橋市桂萱地区)名主幸七から酒造石高178石6斗を譲り受けた。 星野家では9代長兵衛(七郎右衛門朋寛;寛政3年(1791年)生〜安政3年(1856年)没、65歳)が先代の失敗に帰した陸奥南部の事業からは撤退し、地元での農業を柱とする家政大改革を速やかに実行したため、居村における不動産の減少を回避した。天保期(1830年〜1843年)には、星野家が所有する土地は51町6反(154,800坪)まで拡大し、持高は300石余に達した。天保3年(1832年)における貸付・投資額は8,526両にのぼり、その3割は旗本への用達であった。造り酒屋は初め山田屋にやらせていたが、天保10年(1839年)以降は星野家が直接経営した。天保期(1830年〜1843年)には原料繭を上州のみならず信州や奥州からも多量に購入し賃挽人に繭を渡して挽き糸を回収する賃挽製糸経営が各所で盛んとなった。星野家では天保末年(1843年)頃には購入繭が2000両、賃挽人が100人を超えた。原料繭の大部分が前橋などの糸繭市場で取引された。絹糸は桐生新町などを中心とした絹市を介して江戸や京都の絹問屋に流通し、桐生織や伊勢崎絣のみならず京都西陣の絹織物にも使われた。
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