第4の哨戒 1944年5月 - 6月
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「レイトン (潜水艦)」の記事における「第4の哨戒 1944年5月 - 6月」の解説
5月10日、レイトンは4回目の哨戒でジャワ海と南シナ海に向かった。5月23日、レイトンは北緯00度25分 東経107度34分 / 北緯0.417度 東経107.567度 / 0.417; 107.567のタンベラン諸島の北方で2隻の1,000トンから1,500トン級の海上トラックを発見し、浮上砲戦で撃沈した。日付が5月24日に変わったちょうどその時、レイトンは北緯01度15分 東経108度03分 / 北緯1.250度 東経108.050度 / 1.250; 108.050の地点でヒ63船団を探知する。北緯01度17分 東経107度50分 / 北緯1.283度 東経107.833度 / 1.283; 107.833の地点にいたったところで艦尾発射管から魚雷を4本発射し、間を置いてさらに艦首発射管から魚雷を6本、艦尾発射管から魚雷を4本発射。目標は輸送船に設定してあったが、魚雷は最初に発射したものがヒ63船団の旗艦であった海防艦壱岐の艦尾に1本、もう1本は壱岐の艦橋下部に命中。壱岐は艦体を3つに分断されて沈没し、第一護衛船団司令官伊集院松治少将も戦死した。僚艦の松輪が反撃に出たものの、被害はなかった。5月27日には北緯07度32分 東経108度13分 / 北緯7.533度 東経108.217度 / 7.533; 108.217の地点で呂号潜水艦と思しき艦船を発見し、魚雷を4本発射。しかし命中せず取り逃がした。翌5月28日にも北緯10度18分 東経109度55分 / 北緯10.300度 東経109.917度 / 10.300; 109.917の地点で前日のものと同じ潜水艦を発見して魚雷発射のポジションを探るが、そもそも攻撃するには絶好とはいえないポジションだったため、ついに発射の機会を得られなかった。5月31日夜には病院船吉野丸(日本郵船、8,990トン)を発見。6月6日午後、レイトンは北緯08度25分 東経108度40分 / 北緯8.417度 東経108.667度 / 8.417; 108.667の地点でホ02船団からの煙を発見し、差を詰めていく。22時過ぎ、月夜の下で船団をはっきりと確認できたレイトンは北緯08度57分 東経109度17分 / 北緯8.950度 東経109.283度 / 8.950; 109.283の地点にいたり魚雷を3本発射する。魚雷は第15号海防艦に向かい、第15号海防艦は12センチ高角砲で応戦したものの、そのうち1本が右舷兵員室に命中し沈没した。レイトンは首尾よく退散しようとしたが、他の海防艦が激しい爆雷攻撃を行い57発もの爆雷を投下。このうち5発がレートンに対して有効打となり、ソナーが損傷を受けたが致命的な損傷は受けなかったので修理で済ませた。6月13日には、南緯04度12分 東経109度46分 / 南緯4.200度 東経109.767度 / -4.200; 109.767の地点で中国風ジャンクを発見し、中国人11名を捕虜にしてジャンクを撃沈。4日後の6月17日にも南緯05度48分 東経113度51分 / 南緯5.800度 東経113.850度 / -5.800; 113.850の地点で2,000トンから2,500トン級と思しき輸送船を発見し、残っていた魚雷を3本発射して1本を命中させて木製の輸送船を始末した後、9名の捕虜を収容した。6月23日、レイトンは46日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。潜水母艦オリオン(英語版) (USS Orion, AS-18) による修理を受けた。また、艦長がモーリス・W・シェア少佐(アナポリス1937年組)に代わった。
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