第一神港商業学校とは? わかりやすく解説

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神戸市立神港高等学校

(第一神港商業学校 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/14 04:14 UTC 版)

神戸市立神港高等学校
旧校舎(2012年12月)
北緯34度40分30.4秒 東経135度9分24.8秒 / 北緯34.675111度 東経135.156889度 / 34.675111; 135.156889座標: 北緯34度40分30.4秒 東経135度9分24.8秒 / 北緯34.675111度 東経135.156889度 / 34.675111; 135.156889
国公私立の別 公立学校
設置者 神戸市
学区 神戸第二学区(普通科)
兵庫県教委が指定した地域(商業科)
兵庫県全域(情報処理科)
併合学校 神戸市立神港商業高等学校
神戸市立湊商業高等学校
校訓 至誠事に当たるべし
心身を剛健にせよ
世界は我が活動場なり
設立年月日 1907年4月24日
創立者 水島銕也(一神)
鈴木よね(女商)
閉校年月日 2018年3月31日
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
商業科
情報処理科
高校コード 28225B
所在地 652-0043
兵庫県神戸市兵庫区会下山町3-16-1
外部リンク 公式ウェブサイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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神戸市立神港高等学校(こうべしりつ しんこうこうとうがっこう)は、かつて兵庫県神戸市兵庫区にあった市立高等学校。略称は「神港」、もしくは私立の「神港学園神港高等学校」と区別するために「市神いちしん」、「市神港」。第一神港商業学校時代は「一神」とされた。2018年3月31日に閉校となった。

設置学科

沿革

神戸市立第一神港商業学校
  • 1907年4月24日 - 神戸元町通4丁目56(現在の元町通4丁目6番地)に神港商業学校設立(私立)。
  • 1910年4月1日 - 学校経営を神戸市に移管。
  • 1916年10月1日 - 神戸市兵庫区会下山3丁目88(最終所在地と同じ)に移転。
  • 1921年4月1日 - 神戸市立第一神港商業学校と改称。
  • 1947年4月1日 - 学制改革により高等学校に移行、神戸市立神港商業高等学校と改称。
神戸市立第一女子商業学校
  • 1917年4月9日 - 神戸元町通4丁目59に神戸市立女子商業学校設立。
  • 1923年9月1日 - 校舎を楠町6丁目38に移転。
  • 1943年4月1日 - 神戸市立第一女子商業学校と改称。
  • 1945年9月1日 - 校舎が米占領軍に接収される。以後諏訪山小学校、のち千歳小学校に移転。
  • 1947年4月1日 - 学制改革により高等学校に移行、神戸市立湊商業高等学校と改称。
神戸市立神港高等学校
  • 1949年4月1日 - 神港商業高等学校と湊商業高等学校を統合し、神戸市立神港高等学校と改称。普通科と商業科を設置し、総合制とする。
  • 1956年10月10日 - 体育館落成式。
  • 1967年9月20日 - 第2グランド(神戸市西区押部谷町栄字南山846、約24,470平方メートル)、栄寮完工披露。
  • 1972年3月27日 - 商業実践室にコンピュータを導入。
  • 1980年4月1日 - コース制を導入、情報処理コース新設。
  • 1985年4月1日 - 情報処理科を設置。
  • 1995年1月17日 - 阪神・淡路大震災で校舎、プールなど学校施設被災。
  • 1997年
    • 6月1日 - 中館復旧。
    • 9月12日 - プール開き、校訓碑除幕。
  • 2004年7月9日 - 文部科学省より、IT人材育成プロジェクト実施校の指定を受ける。
  • 2005年4月1日 - 普通科のコース制を改編し、「SOLARコース」「BROADコース」を新設。
  • 2012年4月1日 - 普通科の「SOLARコース」「BROADコース」を2年次からの選択制に変更。
  • 2015年 - 普通科募集停止。
  • 2016年
  • 2018年3月31日 - 閉校。

部活動

学校関係者と組織

学校関係者組織

  • 同窓会は前身の2校との合同で、神戸市立神港高等学校同窓会がおかれていた。閉校後は兵庫商業高校同窓会と合併し、神戸市立神港橘高等学校同窓会となっている。

学校関係者一覧

出身者

経済
文化・芸能
野球

アクセス

脚注

関連項目

外部リンク


第一神港商業学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 07:04 UTC 版)

山下実」の記事における「第一神港商業学校」の解説

1922年大正11年)、第一神港商業学校(現神市立神港高等学校)に入学1年生時にはすでに頭角現し2年生早くも4番打者となった在学中1924年夏、1925年春夏、1926年春夏の5季連続甲子園出場1925年夏はベスト4入りした。 1924年8月開場したばかりの阪神甲子園球場は、当時センターまで119m、両翼110m、左右中間至っては128mもあり、のちに来日したベーブ・ルースをして「大きすぎる」と言わしめたほどの威容誇っていた。山下3年生だった1924年夏に初め甲子園の土踏んだが、この時の甲子園練習の際にあたり見回し、「これなら入るな」と独りごと言ったという。実際山下はこの大会4日目8月16日)に行われた早稲田実業戦で、水上義信投手(のち早大)から右翼フェンスショート・バウンド叩きつけるランニング・ホームラン放ち満員観衆度肝抜いた山下はこの試合で2三塁打、1本塁打を含む4安打記録したが、水上から放った本塁打によって「ベーブ山下」あるいは「怪物」というニックネーム奉られることになった。「ベーブ」の異名は、当時メジャーリーグ大活躍していたベーブ・ルースにちなんだものであるチームメイトたちは「怪ちゃん」と呼んだという。 1925年春は、1回戦長野商業戦の2回に、走者2人をおいて小林清投手からワンバウンドで右中間スタンドにぶつけるランニング・ホームラン放ったが、これは選抜大会史上甲子園球場における第1号本塁打である。この大会では、選抜賞・本塁打賞・打撃賞生還打賞の4つ表彰受けたまた、この大会で史上3人目の1大会2本塁打記録したが、戦前選抜でこれを記録したのはわずか4人であり、そのうち球場狭かった第1回大会記録されたものを除くと、1大会2本塁打記録したのは山城健三広陵中)と山下の、2人のみである。 甲子園での通算は、10試合出場して34打数18安打、3三塁打、4本塁打打率.529。甲子園通算4本塁打は、1979年香川伸行(浪商~南海)によって更新されるまでの、甲子園最多記録であった

※この「第一神港商業学校」の解説は、「山下実」の解説の一部です。
「第一神港商業学校」を含む「山下実」の記事については、「山下実」の概要を参照ください。

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