神戸市立神港高等学校
神戸市立神港高等学校 | |
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![]() 旧校舎(2012年12月) | |
北緯34度40分30.4秒 東経135度9分24.8秒 / 北緯34.675111度 東経135.156889度座標: 北緯34度40分30.4秒 東経135度9分24.8秒 / 北緯34.675111度 東経135.156889度 | |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 |
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学区 |
神戸第二学区(普通科) 兵庫県教委が指定した地域(商業科) 兵庫県全域(情報処理科) |
併合学校 |
神戸市立神港商業高等学校 神戸市立湊商業高等学校 |
校訓 |
至誠事に当たるべし 心身を剛健にせよ 世界は我が活動場なり |
設立年月日 | 1907年4月24日 |
創立者 |
水島銕也(一神) 鈴木よね(女商) |
閉校年月日 | 2018年3月31日 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 |
普通科 商業科 情報処理科 |
高校コード | 28225B |
所在地 | 〒652-0043 |
兵庫県神戸市兵庫区会下山町3-16-1 | |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
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神戸市立神港高等学校(こうべしりつ しんこうこうとうがっこう)は、かつて兵庫県神戸市兵庫区にあった市立の高等学校。略称は「神港」、もしくは私立の「神港学園神港高等学校」と区別するために「
設置学科
沿革
- 神戸市立第一神港商業学校
- 1907年4月24日 - 神戸元町通4丁目56(現在の元町通4丁目6番地)に神港商業学校設立(私立)。
- 1910年4月1日 - 学校経営を神戸市に移管。
- 1916年10月1日 - 神戸市兵庫区会下山3丁目88(最終所在地と同じ)に移転。
- 1921年4月1日 - 神戸市立第一神港商業学校と改称。
- 1947年4月1日 - 学制改革により高等学校に移行、神戸市立神港商業高等学校と改称。
- 神戸市立第一女子商業学校
- 1917年4月9日 - 神戸元町通4丁目59に神戸市立女子商業学校設立。
- 1923年9月1日 - 校舎を楠町6丁目38に移転。
- 1943年4月1日 - 神戸市立第一女子商業学校と改称。
- 1945年9月1日 - 校舎が米占領軍に接収される。以後諏訪山小学校、のち千歳小学校に移転。
- 1947年4月1日 - 学制改革により高等学校に移行、神戸市立湊商業高等学校と改称。
- 神戸市立神港高等学校
- 1949年4月1日 - 神港商業高等学校と湊商業高等学校を統合し、神戸市立神港高等学校と改称。普通科と商業科を設置し、総合制とする。
- 1956年10月10日 - 体育館落成式。
- 1967年9月20日 - 第2グランド(神戸市西区押部谷町栄字南山846、約24,470平方メートル)、栄寮完工披露。
- 1972年3月27日 - 商業実践室にコンピュータを導入。
- 1980年4月1日 - コース制を導入、情報処理コース新設。
- 1985年4月1日 - 情報処理科を設置。
- 1995年1月17日 - 阪神・淡路大震災で校舎、プールなど学校施設被災。
- 1997年
- 6月1日 - 中館復旧。
- 9月12日 - プール開き、校訓碑除幕。
- 2004年7月9日 - 文部科学省より、IT人材育成プロジェクト実施校の指定を受ける。
- 2005年4月1日 - 普通科のコース制を改編し、「SOLARコース」「BROADコース」を新設。
- 2012年4月1日 - 普通科の「SOLARコース」「BROADコース」を2年次からの選択制に変更。
- 2015年 - 普通科募集停止。
- 2016年
- 神戸市立兵庫商業高等学校と再編・統合した神戸市立神港橘高等学校開校により生徒募集停止。
- 8月25日 - 神港橘高等学校用として建設された新校舎に移転。
- 2018年3月31日 - 閉校。
部活動
- 野球部
- 神戸市立第一神港商業学校時代の1917年に創部し、選抜高等学校野球大会、全国高等学校野球選手権大会あわせて15回出場し、選抜高等学校野球大会において1929年(第6回)・1930年(第7回)で優勝している[1][2]。神戸市立神港高等学校野球部としての最終戦は2017年(第99回全国高校野球選手権兵庫大会)で、神戸市立神港橘高等学校と連合チームとして出場し2回戦(対龍野北)敗退[2]。山下実、二出川延明ら、多くのプロ野球関係者を輩出した[2]。
学校関係者と組織
学校関係者組織
- 同窓会は前身の2校との合同で、神戸市立神港高等学校同窓会がおかれていた。閉校後は兵庫商業高校同窓会と合併し、神戸市立神港橘高等学校同窓会となっている。
学校関係者一覧
出身者
- 経済
- 文化・芸能
- 陳舜臣 - 直木賞作家
- 宮永真幸 - 札幌テレビ放送アナウンサー
- 小島清 - 歌人
- 小宮孝 - 経済学者(関西学院名誉院長、神戸女学院長)
- 家本秀太郎 - 経済学者(神戸大学名誉教授)
- 林剛史 - 俳優
- 綾瀬マリア - 俳優・声優
- 野球
- 二出川延明 - 元プロ野球選手・審判員
- 三谷八郎 - 元野球選手、プロ野球審判員
- 永井武雄 - 元野球選手・監督
- 山下実 - 元プロ野球選手・監督
- 島秀之助 - 元プロ野球選手・監督・審判員
- 倉信雄 - 元プロ野球選手
- 小柴重吉 - 元プロ野球審判員・指導者
- 西垣徳雄 - 初代国鉄スワローズ監督、ロッテオリオンズ球団代表
- 中根之 - 元プロ野球選手・審判員
- 後藤正 - 元プロ野球選手
- 岸本正治 - 元プロ野球選手
- 宮本幸信 - 元プロ野球選手
- 吉田孝司 - 元プロ野球選手・コーチ
- 山口高志 - 元プロ野球選手・コーチ
- 上野克二 - 元プロ野球選手
アクセス
脚注
- ^ 神戸市立神港高野球部 100年 最後の夏 - 毎日新聞 2017年6月27日配信 2017年7月14日閲覧
- ^ a b c 古豪、100年の歴史に幕=最後の「市神港」が惜敗-高校野球兵庫大会 - 時事通信 2017年7月13日配信 2017年7月14日閲覧
関連項目
外部リンク
第一神港商業学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 07:04 UTC 版)
1922年(大正11年)、第一神港商業学校(現神戸市立神港高等学校)に入学。1年生の時にはすでに頭角を現し、2年生で早くも4番打者となった。在学中、1924年夏、1925年春夏、1926年春夏の5季連続で甲子園に出場。1925年夏はベスト4入りした。 1924年8月に開場したばかりの阪神甲子園球場は、当時センターまで119m、両翼110m、左右中間に至っては128mもあり、のちに来日したベーブ・ルースをして「大きすぎる」と言わしめたほどの威容を誇っていた。山下は3年生だった1924年夏に初めて甲子園の土を踏んだが、この時の甲子園練習の際にあたりを見回し、「これなら入るな」と独りごとを言ったという。実際、山下はこの大会4日目(8月16日)に行われた早稲田実業戦で、水上義信投手(のち早大)から右翼フェンスにショート・バウンドで叩きつけるランニング・ホームランを放ち、満員の観衆の度肝を抜いた。山下はこの試合で2三塁打、1本塁打を含む4安打を記録したが、水上から放った本塁打によって「ベーブ山下」あるいは「怪物」というニックネームが奉られることになった。「ベーブ」の異名は、当時メジャーリーグで大活躍していたベーブ・ルースにちなんだものである。チームメイトたちは「怪ちゃん」と呼んだという。 1925年春は、1回戦の長野商業戦の2回に、走者2人をおいて小林清吉投手からワンバウンドで右中間スタンドにぶつけるランニング・ホームランを放ったが、これは選抜大会史上甲子園球場における第1号本塁打である。この大会では、選抜賞・本塁打賞・打撃賞・生還打賞の4つの表彰を受けた。また、この大会では史上3人目の1大会2本塁打を記録したが、戦前の選抜でこれを記録したのはわずか4人であり、そのうち球場の狭かった第1回大会で記録されたものを除くと、1大会2本塁打を記録したのは山城健三(広陵中)と山下の、2人のみである。 甲子園での通算は、10試合に出場して34打数18安打、3三塁打、4本塁打、打率.529。甲子園通算4本塁打は、1979年に香川伸行(浪商~南海)によって更新されるまでの、甲子園最多記録であった。
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