科学史・科学哲学
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「エルンスト・マッハ」の記事における「科学史・科学哲学」の解説
科学史の分野では『力学の発達』(1883年)、『熱学の諸原理』(1896年)、『物理光学の諸原理』(1921年)が科学史三部作と呼ばれる。 『力学の発達』1883年では、当時の物理学界を支配していた力学的自然観を批判した。 ニュートンによる絶対時間、絶対空間などの基本概念には、形而上学的な要素が入り込んでいるとして批判した。この考え方はアインシュタインに大きな影響を与え、特殊相対性理論の構築への道を開いた。そしてマッハの原理を提唱した。このマッハの原理は、物体の慣性力は、全宇宙に存在する他の物質との相互作用によって生じる、とするものである。この原理は一般相対性理論の構築に貢献することになった。マッハは「皆さん、はたしてこの世に《絶対》などというのはあるのでしょうか?」と指摘したことがある。なお、マッハ自身は相対論に対しては、生涯否定的な立場をとった。 マッハは、ニュートンが『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)で主張して後に、哲学者や科学者らに用いられるようになった「絶対時間」「絶対空間」という概念は、人間が感覚したこともないものを記述にあらかじめ持ち込んでしまっている、形而上的な概念だとして否定した。また同様の理由で、ニュートンがプリンキピアで持ち込んだ「力」という概念の問題点も指摘し、ニュートン力学およびその継承を「力学的物理学」と呼び、そのような物理学ではなく「現象的物理学」あるいは「物理学的現象学」を構築するべきだ、とした。マッハのこうした表現は、フッサールの現象学と共通する点もあるが、フッサール自身はマッハの考えに志向性の概念が欠けていることを批判している。また同様にマッハは、形而上学的概念を排するべきだという観点から、原子論的世界観や「エネルギー保存則」という観念についても批判した。しかし前述のように、マッハのこういった姿勢はアインシュタインに大きな影響を与えたとはいえマッハ自身は相対論を受け入れず、一方で「形而上学的概念である」という批判は、それが当たっていたとしても、物理学の欠陥を具体的には何ら指摘できていないことも事実である。 認識論の分野では、『感覚の分析』(1886年)と 『認識と誤謬』(1905年)が代表的著作である。 マッハの認識論の核心部は現在では「要素一元論」と呼ばれることがある。ヨーロッパで発達した、近代哲学及び近代科学は、主-客二元論や物心二元論などのパラダイムの中にある。マッハはそれの問題点を指摘し、直接的経験へと立ち戻り、そこから再度、知識を構築しなおすべきだとした。つまり我々の「世界」は、もともと物的でも心的でもない、中立的な感覚的諸要素(たとえば、色彩、音、感触、等々)から成り立っているのであって、我々が「物体」と呼んだり「自我」と呼んでいるのは、それらの感覚的要素がある程度安定した関係で立ち現れること、そういったことの複合を、そういった言葉で呼んでいるにすぎず、「物体」や「自我」などというのは本当は何ら「実体」などではない、と指摘し、因果関係というのも、感覚的諸要素(現象)の関数関係として表現できる、とした。そして「科学の目標というのは、感覚諸要素(現象)の関数的関係を《思考経済の原理》の方針に沿って簡潔に記述することなのだ」といったことを主張した。 マッハのこの論点に立つと、物理学と心理学との違いというのは、従来考えられていたような研究対象の違いではないことになり、記述を作り出す観点が異なっているにすぎない、ということになる。こうした観点に立ち、マッハは「統一科学」というものを構想した。 マッハは、感覚に直接立ち現れないことを先験的に認めて命題に織り込むようなことは認めない、としたわけで、いわば、実証主義の中でも極端な立場を採ったことになる。 そして当時、ニュートン流の粒子論(原子論)的世界観を応用して理論を構築しつつあり世界を実在論的な見方をしていたルートヴィッヒ・ボルツマンやマックス・プランクらと論争を繰り広げた。
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