科学史的評価
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1910年に瞻星台の存在を学界に認知させたのは、朝鮮総督府観測所所長をつとめた和田雄治であった。気象学者であった和田は、現地に足を運んで、1909年4月に放棄状態となっていた瞻星台を確認、伝承と文献記録の研究とともに、文化財としてその保護に努めた。和田の推測するところでは、かつて瞻星台の頂上には木造の建造物が設置されており、そこで渾天儀のような天文観測器具による観測が常時行われていた。瞻星台を「東洋最古の天文台」と位置付ける和田の説は併合時代の朝鮮人にとって民族的誇りを掻き立てるものであり、以降長年にわたって無批判に受け入れられていた。 後の大韓民国成立後の同国内の科学史学界では、瞻星台の建造意図についての解釈は何度かの変遷を経てきた。瞻星台の学問的な調査研究がはじめられたのは、大韓民国成立後の1960年代になってからであった。科学史家の全相運は1964年に瞻星台の構造と機能を検討し、天文観測用構造物を設置するには不向きな構造であることを指摘した。全相運の説では、太陽の運行につれて日影の長さを記録する圭表(日時計)としての役割が主であり、内部もしくは頂上から天文観測を行うことがあったとしても、日食などの変異に際して臨時に行われるだけのものだとされた。 全の問題提起をきっかけとして、科学史を専門としない者も含めて様々な説が唱えられ、激烈な論争が繰り広げられた。瞻星台が天文観測とは無縁な宗教的・象徴的な建造物だという主張もこの時期に登場した。金容雲によれば、瞻星台は周髀算経などに伝えられる当時の科学知識を集積した一種の記念碑であり、使われている石の数(約360個)は1年の日数を、積まれた段数(一説には28段)は二十八宿を象徴していた。また李龍範は、善徳女王が仏教に力を入れていたこともあり、仏教の発展を願い、霊山である須弥山を模った祭壇であろうと考えた。 1990年代には論争が飽きられ収束し、常設的な天文台だとする伝統的な見解も、宗教的・象徴的な意味だけを認める主張もいずれも影を潜めた。1996年に開かれた第9回国際東アジア科学史会議では、瞻星台で何らかの天文観測が行われたかもしれない、という点で史学者の間に意見の一致が見られた。ただし、具体的な観測形態やその意味付けについて統一的な見解はいまだに得られていない。
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科学史的評価
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世宗代の朝鮮では科学技術が振興し、天文学、医学、農業技術などで独自の発展が見られた。気象観測の分野に限っても、測雨器のほか、水標(スピョ、河川の水位を計測するための標識)や風旗(プンギ、風向計)のような新しい器具が導入された:28。科学史家の全相運はこの時代を「韓国伝統科学の黄金時代」と呼び、中国の模倣にとどまらない創造的科学技術の気運があったとした:28。その代表的な事績とされているのが測雨器である。 測雨器の設置には雨乞いの祭事の一環という側面もあった。日照りに際して降雨を待つ心情を天に訴え、それによって農民に安ど感を与えるとともに、祭事の後に降った雨を計ることで王の威徳を示すのである。現存する正祖代の測雨台には、数百字にわたる銘文でその政治的な製作意図が記されている。それによると、世宗・英祖代と比べて、正祖代には気象観測の科学的価値よりもこのような「東洋的祭政における王道精神の呪術的発揚」に主眼が置かれていたと考えられる。
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