発見と保存
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加曽利貝塚は、1887年(明治20年)の上田英吉の「下総国千葉郡介墟記」(『東京人類学会雑誌』2-19)によって学界に初めて紹介された。1907年(明治40年)、東京人類学会の調査によって「本邦第一の貝塚」であることが確認された。 1963年(昭和38年)頃、加曽利貝塚のある土地を東洋プレハブ工業が買収して整地作業を開始し、南貝塚の一部を破壊した。これを機に地元高校教師で考古学者としても活動していた武田宗久らが保存運動を展開し、広範な市民の支持を得た。1964年(昭和39年)3月18日、千葉市は北貝塚の5ヘクタール余りの用地を買収して公園として整備することとし、1966年(昭和41年)11月24日に、土器や石器、骨など出土品を展示する千葉市立加曽利貝塚博物館が開館した。その後1972年にかけて南貝塚の土地も買収され、1971年(昭和46年)3月22日に北貝塚が「加曽利貝塚」として国の史跡に指定され、1977年(昭和52年)には南貝塚が追加指定されて貝塚のほぼ全域が保存されることとなった。2017年(平成29年)10月13日、貝塚として初めて国の特別史跡に指定された。 縄文時代の生活を体験するイベントがしばしば開かれている。最寄り駅は千葉都市モノレール2号線桜木駅(同駅は「加曽利貝塚」の副駅名がある。徒歩15分程度)。
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発見と保存
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明治時代頃から存在は知られており、小発掘や土器片収集が行われてきたが、学術的な測量等の本格的な発掘が行われ始めたのは昭和20年代になってからである。 1968年(昭和43年)にさつきが丘団地が建設され、周辺の地形は失われてしまった。しかし、貴重な文化遺産として貝塚部分は保存され、現在は史跡公園として活用されている。また、さつきが丘団地建設時に集落跡等の遺構が見つかったと言われているが、詳しい報告書が作成されることもなく、未調査で破壊されたという。 1981年(昭和56年)、国の史跡に指定された。
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発見と保存
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アイン・ガザル遺跡はアンマンとザルカの町を結ぶ高速道路を建設していた開発業者が1974年に発見したものである。遺跡の発掘は1982年に開始され、この地には紀元前7250年から5000年ごろまでは人が住んでいたことがわかった。紀元前7000年の前半には最盛期を迎え、居住エリアは10-15ヘクタールに広がり、3000ほどの人間が暮らしていた。 はじめて像が発見されたのは1983年である。ブルドーザーが地面を切り拓いてできた断面を調査する考古学者は、地表から2.5メートルの巨大なくぼみのへりで、漆喰でできた彫像たちに出会ったのである。1984-85年にゲイリー・ロールフソンが中心となって調査が行われ、続く1993-1996年にロールフソンとゼイダン・カファリが指揮をとり再び調査が行われた。 最終的に15の像と15の半身像が二つの地下蔵から発見された。それぞれはおよそ200年あまりも別の時代の穴だと考えられた。放棄された家屋の床に掘られた穴からみつかった像は、非常に保存状態がよかった。それ以外にもエリコとナハル・ヘマルで一部が見つかったが、断片的な状態のものしか遺っていなかった。 地下の穴はそれ自体が丁寧に掘られていただけでなく、おさめられていたのが船の積み荷として耐えるためポリウレタン・フォームの吹き付けられた木の箱だった。像は漆喰でできているため、ただ埋められてしまえば損耗は激しかったたはずだった。最初の調査で発見された像はイギリスの王立考古学研究所に送られ、数年後の二度目の調査でみつかったものは修復作業のためニューヨークのスミソニアン協会に送られた。作業を終えた像はヨルダンに返却され、ヨルダン新国立博物館で展示が行われた。また一部は2013年に大英博物館に貸し出されたほか、イギリスで修復が続けられたものもあった。
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