癌の発見と手術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/27 11:25 UTC 版)
「オードリー・ヘプバーン」の記事における「癌の発見と手術」の解説
1992年9月終わり、ユニセフの活動で赴いていたソマリアからスイスの自宅へ戻ったヘプバーンは腹痛に悩まされるようになった。専門医の診察を受けたが原因がはっきりせず、精密検査のため10月にロサンゼルスへと渡った。10月末にシダーズ・サイナイ・メディカル・センター(Cedars-Sinai Medical Center)に入院し、腹腔鏡検査の結果、腹膜偽粘液腫であることが明らかとなった。5年ほどかけて成長した癌が転移しており、小腸をも薄く覆い尽くしていた。そして11月1日、手術が行われた。 病院の広報は「悪性の腫瘍は完全に切除され、どの臓器にも転移はない。」と語ったが、タブロイド紙の「ナショナル・エンクワイアラー」が手術室の誰かを買収して「彼女の癌は手の施しようがなく、あと3か月の命」だとセンセーショナルに報じた。ロバート・ウォルダース、息子のショーンとルカはヘプバーンは快方に向かいつつあると声明を出したが、ウォルダーズは「あの時だけは真実を語っていたのは彼らの方で、われわれは嘘をついていた。われわれが嘘をついたのは自分を力づけるためだった。」とのちに語っている。 術後は病室に家族や友人の他、エリザベス・テイラーやグレゴリー・ペックが何度も見舞いに来ていた。1週間後には退院し、「第二のホーム」と呼ぶヘプバーンの親友のコニー・ウォルドの家に移った。傷口が塞がってから抗がん剤フルオロウラシルとフォリン酸による化学療法が始まった。副作用もなく、1週間以内に再度化学療法を受けることになって家族は希望をつないでいた。しかし数日後腸閉塞になり、12月1日に再入院した。病院に戻る為にヘプバーンとショーンが準備をしていた時、本当は怯えていた心の内側を1度だけヘプバーンは見せて、「ああ、ショーン、たまらなく恐いの」と涙をいっぱいにたたえた目でショーンにしがみついて囁いた。同日再手術が行われたが、腫瘍が急激に広がりすでに手の施しようがなく、開腹したもののすぐに閉じたため1時間もせずに終了した。 ヘプバーンの余命がわずかであることを知らされた家族たちは、ヘプバーンの希望で、最後になるであろうクリスマスをスイスの自宅で過ごさせるために飛行機で送り返すことを決めた。しかしヘプバーンはかなり衰弱しており通常の国際便での旅には耐えられない状態だった。このことを知ったヘプバーンの衣装デザイナーで長年の友人だったユベール・ド・ジバンシィが、メロン財閥のポール・メロンの妻レイチェル・ランバート・メロンに頼んで、メロンが所有するプライベートジェット機をヘプバーンのために手配した。それを知ったヘプバーンは喜びと感謝で目が潤み、急いでショーンにジバンシィに電話を掛けさせたが、胸がいっぱいで言葉にならず、「ああ、ユベール…本当に感激だわ」と呟くのがやっとだった。電話を切ると、「あの方は、私が彼の人生のすべてだとおっしゃってくださったのよ!」と言って顔を輝かせた。 出発前日の12月19日に医師たちは、離陸時の気圧の変化に耐えられず腸の血管が破れ腹膜炎を起こす可能性があり、そうなると敗血症で1時間ともたないだろうと告げたが、ヘプバーンはビリー・ワイルダー夫妻やグレゴリー・ペック夫妻やジェームズ・スチュワートという親しい友人に会って最後の別れを告げた。ヘプバーンは痛みがものすごくひどいことを隠して、みんなの気持ちをひきたてようとしていた。帰りに夫人からそれを聞いたペックはグレープフルーツ大の塊が喉につかえた感じだったと語っている。 翌12月20日にロサンゼルスを出発。ジェット機には医師と看護師が付き添った。パイロットは非常にゆっくり高度を上げ、着陸時にもできるだけ気圧の変化が無いように少しずつ降下させていった。途中、グリーンランドで給油する必要があったため、危険性は2倍であった。ジュネーヴの滑走路に降りたとき「帰ってきたわ」とヘプバーンの顔は輝き、長男のショーンは、家に帰れたことがどれだけヘプバーンにとって重大な意味を持っていたか、そのとき知ったという。
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