ユベール・ド・ジバンシィとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ユベール・ド・ジバンシィの意味・解説 

ユベール・ド・ジバンシィ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/10 06:29 UTC 版)

伯爵
Hubert de Givenchy
生誕 (1927-02-20) 1927年2月20日
フランス、ボーヴェ
死没 2018年3月10日(2018-03-10)(91歳)
フランス、ヌイイ=シュル=セーヌ
国籍 フランス
教育 エコール・デ・ボザール
著名な実績 オードリー・ヘプバーンの黒いジバンシィドレス
レーベル ジバンシィ
親戚 James de Givenchy (甥)
受賞 レジオンドヌール勲章シュヴァリエ (1983年)[1]
芸術文化勲章 (1992年)[1]
テンプレートを表示

ユベール・ジャム・マルセル・タファン・ド・ジバンシィ伯爵(Le comte Hubert James Marcel Taffin de Givenchy、1927年2月20日[2]2018年3月10日[3])は、フランスファッションデザイナー。1952年にジバンシィを設立した。オードリー・ヘプバーンの個人的及び専門的なワードローブの多くやジャクリーン・ブーヴィエ・ケネディの服をデザインしていたことで有名。1970年にInternational Best Dressed Listに殿堂入りした[4]

幼年期

1927年2月20日にオワーズ県ボーヴェ[5][6][7]プロテスタントの家に生まれる[2]。父はLucien Taffin de Givenchy (ジバンシィ侯爵) (1888–1930)であり、母は元Béatrice ("Sissi") Badin (1888–1976)である。イタリアのベニスにルーツを持つタファン・ド・ジバンシィ家(元の名前はTaffini)は、1713年に貴族に列され、このときの家長がジバンシィ侯爵となった[8]。兄はJean-Claude de Givenchy (1925–2009)であり、家の侯国を受け継ぎ、最終的にパルファムジバンシィ英語版の社長となった[9]

1930年に父がインフルエンザにより死去した後は、母と母方の祖母に育てられた[7]。母方の祖母はMarguerite Dieterle Badin (1853–1940)であり、Jules Badin (1843–1919) (歴史的なGobelins Manufactory及びBeauvais tapestry工場のオウナー及び工場長であった芸術家)の未亡人である。芸術的なBadinの家族には芸術的な職業に就く者が多かった。母方の曾祖父であるJules Dieterleはボーヴェ工場のデザインも行ったセットデザイナーであり、ここにはエリゼ宮の13点のデザインも含まれている。高祖父の1人はパリ・オペラ座のセットをデザインしている[10]

17歳の時にパリに移り、エコール・デ・ボザールで学んだ[6][7]

経歴

1945年にジャック・ファットのために最初のデザインを行った[6][11]。その後、Robert PiguetLucien Lelong (1946) のためにデザインを行い、当時まだ無名であったピエール・バルマン英語版クリスチャン・ディオールと一緒に仕事を行った[6][11]。1947年から1951年まで、アヴァンギャルドのデザイナーエルザ・スキャパレリのために仕事を行った[6][11]

ジバンシィによりデザインされた『ティファニーで朝食を』におけるオードリー・ヘプバーンの帽子

1952年、パリのPlaine Monceauに自身のデザインハウスをオープンした[6][7]。後に自身の最初のコレクションを、当時のパリのトップモデルにちなみ"Bettina Graziani"と命名した[6]。ジバンシィのスタイルはディオールの保守的なデザインとは対照的に革新的なものであった。25歳の時、先進的なパリのファッションシーンにおいて最年少のデザイナーであった。最初のコレクションは経済的な理由からかなり安い生地を使用していたのが特徴であったが、そのデザインが好奇心をかきたてた[12]

後にジバンシィのファッションの最も有名な支持者となるオードリー・ヘプバーンがジバンシィと初めて出会ったのは、1953年の『麗しのサブリナ』の撮影中であった[13][14]。その後、ヘプバーンが『ティファニーで朝食を』で着用した黒いドレスをデザインした[13][14]。また、ヘプバーンのために初の香水コレクション(L'InterditとLe de Givenchy)を開発した[6][7]。オードリー・ヘプバーンはその香水の顔となった。スターがフレグランスの広告キャンペーンの顔になったのはこれが初めてである[15]

当時、ジバンシィは憧れの存在であったクリストバル・バレンシアガとも出会っている[7][16]。ジバンシィはオートクチュールの高尚な環境だけでなく、マンハッタンイースト・ヴィレッジにあるLimboという店のようなアヴァンギャルドな環境からもインスピレーションを得ていた[17]

ジバンシィの著名なお客には以下のような人がいる。Donna Marella Agnelliローレン・バコール[5]イングリッド・バーグマン、Countess Mona von Bismarck, Countess Cristiana Brandolini d'Adda, Sunny von Bülow, レナータ・テバルディ, マリア・カラス, キャプシーヌ, マレーネ・ディートリヒ,[5] Daisy Fellowes, グレタ・ガルボ, Gloria Guinness, Dolores Guinness, Aimee de Heeren, オードリー・ヘプバーン,[13] ベイビー・ジェーン・ホルツァー, グレース・ケリー,[13] Princess Salimah Aga Khan, Rachel Lambert Mellon, ソフィア・ローレン, ジャンヌ・モロー, ジャクリーン・ケネディ・オナシス,[13] Empress Farah Pahlavi, Babe Paley, リー・ラジヴィル, Comtesse Jacqueline de Ribes, Nona Hendryx, Baroness Pauline de Rothschild, フレデリカ・フォン・シュターデ, Baroness Gaby Van Zuylen van Nijevelt, ダイアナ・ヴリーランド, Betsey Cushing Roosevelt Whitney, Baroness Sylvia de Waldner, ウィンザー公爵夫人, Haitian first lady Michèle DuvalierJayne Wrightsman、aespa.

1954年、ジバンシィのプレタポルテがデビューした[7][16]

1958年、アイコンである「バルーンコート」と「ベビードール」ドレスを発表[18][19]

1969年[20]、メンズラインを作成した[7]。1976年のフォード・モーターリンカーン・コンチネンタル・マークIV英語版クーペに始まり、1983年のリンカーン・マークVIと1987年のリンカーン・コンチネンタルセダンに至るまでコンチネンタル・マークシリーズ(1981年から1983年)やリンカーン・コンチネンタル(1982年から1987年)のジバンシィエディションを提供した。1982年から1984年にかけて、日産自動車と組んでローレル(4代目・C31型)の内外装に手を入れたジバンシィバージョンを3度にわたって発売した。

1988年、カリフォルニア州ビバリーヒルズのBeverly Wilshire Hotelで回顧展を開催した[11]

ジバンシィのハウスは1981年に分かれ、香水ラインはヴーヴ・クリコになり、ファッション部門は1989年にLVMHに買収された[21]。現在はLVMHはパルファム・ジバンシィも所有している[6]

晩年

1995年にファッションデザインから引退した[13]ジョン・ガリアーノがジバンシィのラベルを率いる後継者となった[6][7]。ガリアーノが短期間務めた後は、アレキサンダー・マックイーンが5年間務め、ジュリアン・マクドナルド英語版が2001年から2004年まで務め、2005年から2017年まではRiccardo Tisciが務め、ジバンシィの女性用プレタポルテとオートクチュールが作られた[6][7]Clare Waight Kellerが現在のオートクチュール・メゾンのクリエイティブディレクターである[22]

パリ近郊ウール=エ=ロワール県Romilly-sur-Aigreにあり歴史的建造物に指定されている城Château du Jonchetに居住していた[7]。引退後は、17世紀から18世紀のブロンズや大理石の彫刻を収集することに専念していた[14]。2010年7月、オックスフォード・ユニオンで講演を行った[6][7]。2014年9月8日から14日のBiennale des Antiquairesの間に、Jean-Baptiste-Claude Odiotセーヴル焼ジャック=ルイ・ダヴィッドアンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾンなどによる作品を集めた個人的な売買をクリスティーズで行った[23]

2007年1月、フランス郵便局はジバンシィがデザインしたバレンタインデー用の切手を発行した。2014年10月、スペイン、マドリッドのティッセン=ボルネミッサ美術館でジバンシィがデザインした95点の作品を集めた回顧展が開催された[13][24]

長年のパートナーはファッションデザイナーのPhilippe Venetであった[25]

2018年3月10日に上述パリ近郊ルネッサンス様式のシャトーに居住し、ヌイイ=シュル=セーヌで91歳で死去した[3][26][27][28][29][30]。パリのパッシー墓地に埋葬された。

パッシー墓地にある墓

書誌情報

  • Françoise Mohrt, The Givenchy Style (1998), Assouline. ISBN 2-84323-107-8
  • Pamela Clarke Keogh, Hubert de Givenchy (introduction): Audrey style (1999), Aurum Press. ISBN 1-85410-645-7
  • Jean-Noël Liaut: Hubert de Givenchy : Entre vies et légendes (2000), Editions Grasset & Fasquelle. ISBN 2-246-57991-0

出典

  1. ^ a b Mohrt, Françoise. The Givenchy Style. Assouline, 1998. ISBN 2-84323-107-8, p. 204.
  2. ^ a b Le couturier Hubert de Givenchy est mort à l'âge de 91 ans” (French). Le Monde (2018年3月12日). 2021年4月閲覧。
  3. ^ a b 'Little black dress' designer Givenchy dies aged 91”. Yahoo News Australia (2018年3月13日). 2018年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月12日閲覧。
  4. ^ Zilkha, Bettina (2004). Ultimate Style – The Best of the Best Dressed List. pp. 116. ISBN 2-84323-513-8 
  5. ^ a b c ユベール・ド・ジバンシィ - FMD
  6. ^ a b c d e f g h i j k l Hubert de Givenchy: 'It was always my dream to be a dress designer', The Independent, 7 June 2010
  7. ^ a b c d e f g h i j k l Connie Roff, Who's Who: Hubert de Givenchy, Vogue, 11 November 2011
  8. ^ Jougla VI, 256, numéro 32324.
  9. ^ New York Times,Hubert de Givenchy Dies at 91; Fashion Pillar of Romantic Elegance, by Eric Wilson, March 12 2018
  10. ^ (fr)Encyclopedie.picardie.fr, Givenchy, Hubert de
  11. ^ a b c d Rose-Mary Turk, Givenchy : For 36 years, He Has Reigned as a Prince of Fashion; an Unusual Retrospective in L.A. Will Show Why, The Los Angeles Times, 28 October 1988
  12. ^ Working on a tight budget, Givenchy served up the floor-length skirts and country chic blouses in raw white cotton materials normally reserved for fittings. French fashion designer Hubert de Givenchy has died at the age of 91, News Corp Australia Network, March 13, 2018
  13. ^ a b c d e f g Ashifa Kassam, Hubert de Givenchy needled by collapse of haute couture, The Guardian, 22 October 2014
  14. ^ a b c Mary M. Lane, Hubert de Givenchy Remembers Audrey Hepburn, The Wall Street Journal, 4 September 2012
  15. ^ History of the house
  16. ^ a b Lauren Milligan, Hubert De Givenchy On Fashion Today, Vogue, 20 October 2014
  17. ^ Vogue (15 February 1966)
  18. ^ The iconic Givenchy balloon coat
  19. ^ The 'baby doll' dress Archived 24 November 2015 at the Wayback Machine.
  20. ^ Givenchy Gentleman: prêt-à-porter for men Archived 24 November 2015 at the Wayback Machine.
  21. ^ Pat McColl, Fashion 89 : Givenchy and Valentino Add Final Touch, The Los Angeles Times, 27 January 1989
  22. ^ Vogue, Clare Waight Keller Is Givenchy’s New Artistic Director, March 16, 2017 by Nicole Phelps
  23. ^ Christie's: Empire, mise en scène par Monsieur Hubert de Givenchy
  24. ^ Thyssen-Bornemisza Museum: Hubert de Givenchy
  25. ^ GGG.at: Modeschöpfer Hubert de Givenchy ist tot (german)
  26. ^ Givenchy, French fashion icon, dies aged 91”. BBC News (2018年3月12日). 2021年4月閲覧。
  27. ^ Wilsher, Kim (2018年3月12日). “Hubert de Givenchy, maker of style icons, dies aged 91”. The Guardian. 2021年4月閲覧。
  28. ^ Hubert de Givenchy, Pillar of Romantic Elegance in Fashion, Dies at 91”. The New York Times (2018年3月12日). 2018年3月12日閲覧。
  29. ^ Fashionista website. Retrieved 14 March 2018.
  30. ^ “French fashion icon Givenchy dies” (英語). BBC News. (2018年3月12日). https://www.bbc.com/news/world-europe-43375454 2018年11月29日閲覧。 

外部リンク


ユベール・ド・ジバンシィ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/27 11:25 UTC 版)

オードリー・ヘプバーン」の記事における「ユベール・ド・ジバンシィ」の解説

ヘプバーンイメージ作りあげたのは、ファッションデザイナーのユベール・ド・ジバンシィがデザインした洋服だった。ジバンシィヘプバーンドレス最初にデザインしたのは、1954年の映画『麗しのサブリナ』からである。衣装イーディス・ヘッド担当だったが、監督ビリー・ワイルダーは、パリ美しく変貌遂げたサブリナ衣装は、パリマネキンが着るような最新モードあるべきだと考えジバンシィサロン自分直接買い付けるようヘプバーンフランス送り出したパラマウント関係者から、「ヘプバーン」という女優が今パリ来ており、次の映画で使う衣装探していると言われジバンシィは、その名前から、憧れ大女キャサリン・ヘプバーンだと思い込み大喜びアポイントメント受けた。そのためオードリー初め顔を合わせたジバンシィ失望し秋冬コレクション前で空いている時間ほとんどないため衣装新たに作る時間はないとヘプバーン答えている。それでもジバンシィは「すでにある服を試して衣装としてふさわしいならなんとかなるかもしれません」と答えたヘプバーンはそれを受け入れ1953年春夏コレクションの中から最終的に3つのドレスとそれに合わせた帽子選びだし、パリ・コレクション一流モデル合わせて作られドレスウエスト50.8cm)を着こなしてみせた。その後ヘプバーンは彼がデザインした多く洋服着こなし、そのファッションスタイルジバンシィの名とともに世界的に高く評価されることになっていった。二人友情協力関係ヘプバーン死去するまで続いた後年ジバンシィヘプバーンから「あなたの作ってくれたブラウススーツ着ていると、服が私を守ってくれている気がするわ」と言われ感激した話している。ジバンシィ『麗しのサブリナ』以降も『パリの恋人』、『昼下りの情事』、『ティファニーで朝食を』、『パリで一緒に』、『シャレード』、『おしゃれ泥棒』、『華麗なる相続人』、『おしゃれ泥棒2』でヘプバーンの衣装担当したまた、ジバンシィヘプバーンとの35年にわたる交友で「彼女(ヘプバーン)の身体のサイズは、1インチとして変わらない」と述べている。ジバンシィヘプバーン生涯通じて友人理解者であり、ヘプバーンジバンシィにとって芸術女神ミューズだった。また、ジバンシィは「ランテルディ」という香水ヘプバーンのために調合している。

※この「ユベール・ド・ジバンシィ」の解説は、「オードリー・ヘプバーン」の解説の一部です。
「ユベール・ド・ジバンシィ」を含む「オードリー・ヘプバーン」の記事については、「オードリー・ヘプバーン」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ユベール・ド・ジバンシィ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ユベール・ド・ジバンシィ」の関連用語

ユベール・ド・ジバンシィのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ユベール・ド・ジバンシィのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのユベール・ド・ジバンシィ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのオードリー・ヘプバーン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS