生誕と初期の人生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 02:52 UTC 版)
「サタジット・レイ」の記事における「生誕と初期の人生」の解説
サタジット・レイの先祖は少なくとも十世代前まで遡ることができる。祖父のウペンドロキショル・レイ(英語版)は著名な児童文学作家で、子供向け雑誌『ションデシュ(英語版)』の発行を手がけた。また、印刷会社U. Ray and Sonsの設立者でもあり、ほかにもイラストレーターや哲学者、アマチュア天文学者、さらには19世紀のベンガルで興った宗教および社会活動のブラフモ・サマージの指導者としても活動し、詩人のラビンドラナート・タゴールの一家とも親しかった。父のシュクマル・レイ(英語版)もベンガル語の児童文学とナンセンス・ヴァース(英語版)で先駆的な業績を残した作家であり、イラストレーターや評論家としても活動した。 1921年5月2日、サタジットはカルカッタ(現在のコルカタ)で、シュクマルと母スプラバ・レイの間に生まれた。サタジットは上流階級に属する家庭に生まれたが、わずか3歳の時にシュクマルが亡くなったため、スプラバの親戚の家に身を寄せながら、スプラバのわずかな収入で生活することになった。成長したサタジットはカルカッタのバーリグンジ政府高校(英語版)で学び、プレジデンシー・カレッジ(英語版)(当時はコルカタ大学の管区カレッジ)で経済学の学士号を取得したが、既にサタジットの興味はいつもファインアートに向けられ、西洋音楽に夢中となった。 1940年、サタジットの母親はタゴールが設立したシャンティニケトン(英語版)のビシュバ・バラティ大学へ進学するよう求めたが、カルカッタに愛着を持つサタジットはシャンティニケトンで学業生活を送ることに乗り気ではなかった。サタジットは母の説得と、タゴールを尊敬していたこともあって進学を決意し、美術学科に入ったが、この時期に東洋芸術に触れ、後に認めたところによると有名な画家のノンドラル・ボーズ(英語版)やビノード・ビハーリー・ムカルジー(英語版)からたくさんの事を学んだ。さらにこの時期にアジャンター石窟群、エローラ石窟群、エレファンタ石窟群を訪れ、そのインド芸術から大きな刺激を受けた。 1943年、サタジットはカルカッタのイギリス系広告会社D・J・キーマー社にグラフィックデザイナーとして就職し、月80ルピーの給料を得た。サタジットはグラフィックデザインの制作を上手くこなしたが、会社内ではイギリス人とインド人の従業員の間にいさかいがあり、イギリス人社員は給与も優遇されていた。さらにサタジットは「依頼はどれも愚かしげなものばかり」と感じていた。やがてサタジットは、D. K. Guptaが新たに設立した出版社シグネット・プレス(英語版)で働いた。この会社では出版される書籍の表紙デザインを任され、尚且つ完全な芸術的自由を与えられた。サタジットはJibanananda Dasの『Banalata Sen』と『Rupasi Bangla』、ジム・コーベット(英語版)の『Maneaters of Kumaon』、ジャワハルラール・ネルーの『インドの発見(英語版)』など多くの本の表紙をデザインした。また、ビブティブション・ボンドパッダエが著したベンガル語の古典的小説『大地のうた(英語版)』を子供向けに改訂した『Aam Antir Bhepu』の表紙デザインと挿絵も手がけたが、サタジットはこの本に大きな感銘を受け、後に自身の初監督映画の題材に選び、その作品のいくつかの革新的な場面でこの挿絵を用いた。 1947年、サタジットは友人のチダナンダ・ダスグプタ(英語版)らとともに、カルカッタで最初のシネクラブであるカルカッタ・フィルム・ソサエティ(英語版)を設立した。サタジットはセルゲイ・エイゼンシュテイン監督のソ連映画『戦艦ポチョムキン』(1925年)などのヨーロッパ映画をインドで初めて上映し、映画文化を普及させる運動に従事しながら、自らもそれらの作品を鑑賞して映画を勉強した。また、第二次世界大戦中にカルカッタに駐留していたアメリカ兵と親しくなり、カルカッタで上映されるアメリカ映画の最新情報を仕入れ続けていた。この頃にサタジットはイギリス空軍にいたノーマン・クレールと親しくなり、クレールを通じてチェスや西洋クラシック音楽にも熱をあげた。 1949年、サタジットは従姉で長年の恋人だったビジョヤ・ダス(英語版)と結婚した。夫婦は後に映画監督となる息子サンディープ・レイ(英語版)を得た。この年、フランスの映画監督ジャン・ルノワールが『河』の撮影のためにカルカッタを訪れた。サタジットはルノワールの仕事を手伝い、カルカッタ周辺のロケ地探しに務めた。さらにサタジットはルノワールに長く心にとどまる『大地のうた』を映画化する構想を話し、ルノワールはそれを進めるよう励ました。翌1950年、サタジットはD・J・キーマー社からロンドン本社での勤務を命じられ、約6ヶ月間その地にとどまり、その間に99本の映画を鑑賞した。それらの映画の中にはヴィットリオ・デ・シーカ監督のネオレアリズモ映画『自転車泥棒』(1948年)があり、サタジットはこの作品に強い衝撃を受けた。後に語ったところによると、映画監督になることを決意して劇場を出たという。
※この「生誕と初期の人生」の解説は、「サタジット・レイ」の解説の一部です。
「生誕と初期の人生」を含む「サタジット・レイ」の記事については、「サタジット・レイ」の概要を参照ください。
- 生誕と初期の人生のページへのリンク