生誕から青年まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 21:53 UTC 版)
「ジョン・モルガン」の記事における「生誕から青年まで」の解説
ジョン・ピアポント・モルガンはコネチカット州ハートフォードで生まれた。父はマサチューセッツ州ホールヨーク出身の銀行家ジューニアス・スペンサー・モルガン(1814年 - 1891年)、母は教会の牧師の娘だったジュリエット・ピアポント(1816年 - 1884年)。父方の系譜は源流のウィリアムが名家「トレデガー・モーガン」と姻戚関係にある。同家は海賊ヘンリー・モーガンのいることで知られている[要出典]。 ピアポントは、父・ジューニアスにより種々の教育を授けられ、1848年秋、ハートフォード・パブリック・スクールに転科した後、チェシャの英国国教会アカデミー(Episcopal Academy、現チェシャ・アカデミー)に首席で進学。1851年9月には、キャリアとなるために有効な数学に秀でているイングリッシュ・ハイスクールへ入学した。 1852年9月、リウマチ熱に罹患し、歩けないほどになった。ジューニアスはすぐに船を手配し、モルガンをポルトガル北部のアゾレス諸島に転移療養させた。約1年後に回復し、投資信託のメッカであるボストンに戻って勉学を続けた。 ハイスクール卒業後、ジューニアスによりスイスのヴェヴェイ近くにある学校に進学した。流暢なフランス語を取得後、今度はドイツ語取得のためにゲッティンゲン大学に進学した。6ヶ月である程度のレベルに達し、芸術の歴史もかじったあとヴィースバーデン経由でロンドンに戻り、学業を修了した。こうして欧州金融界と話せるようになった。 1857年、モルガンは父の経営する銀行のロンドン支店に入社。翌年、ニューヨークに移り、ジョージ・ピーボディ・アンド・カンパニーのアメリカ代理店であるダンカン・シェアマン・アンド・カンパニーに勤務(ジョージ・ピーボディを参照)。1860年、J・P・モルガン・アンド・カンパニーを設立し、父の会社のニューヨーク代理店のエージェントの役割を果たした。南北戦争時の翌年、モルガンは旧式のライフルを1挺3.50ドルで購入し、改良したのちに22ドルで北軍に売却してスキャンダルになった(ホール・カービン事件)。ハートフォード・パブリック・スクールの教師を人脈にもっていたモルガンは、教師の親戚サイモン・スチーブンスを代理人に立ててライフル購入資金を貸し付けていた。モルガン自身は他の富裕層同様、1000ドルを代理人に支払うことで兵役を免れていた。 1864年、ダブニー・モルガン・アンド・カンパニーをつくった。1871年、フィラデルフィアの銀行家であるアンソニー・J・ドレクセル(Anthony Joseph Drexel I)と提携し、ドレクセル・モルガン・アンド・カンパニーを設立した。ドレクセルが1893年に死去した後、1895年にJ・P・モルガン・アンド・カンパニー(現JPモルガン・チェース)となる。
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