現代イラク政治における役割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 22:07 UTC 版)
「アリー・スィースターニー」の記事における「現代イラク政治における役割」の解説
2003年のアメリカ合衆国のイラク侵攻以来、スィースターニーは以前にましてイラクにおける政治的役割を果たすようになっており、西側主要メディアでは一般にイラク戦争後のイラクでの最も政治的影響力をもつ人物としている。2003年の侵攻直前、占領軍に対し抵抗しないよう呼びかけるイラク・シーア派最高指導者として発出したファトワーは連合軍のすみやかな勝利達成を側面から援助したものといえる。2004年、スィースターニーの弟子で当時42歳で民兵組織マフディー軍の指導者ムクタダー・サドルがその名を高め、スィースターニーの潜在的ライバルとまで呼ばれるようになる。ムクタダー・サドルはスィースターニーが国外療養中に聖都ナジャフの制圧を企てるが、スィースターニーは帰国・復帰すると同時に、ナジャフの街路に支持者を組織して権力を誇示、ムクタダー・サドルはナジャフを退出した。これに関してはスィースターニーの支持者には富裕層が多く、ムクタダー・サドルの支持者にはマフディー軍の兵力供給源となっている都市貧困層が多いという社会的基盤について階層の差異が重要であると指摘される。 2003年以降、スィースターニーは政治的行動性を増し、代表者を通じて運動をおこなっているが、これはムクタダー・サドルの擡頭に対する反応とも解釈されており、すなわちイラク社会の悪化する状況に対する反応でもある。 アメリカの占領開始直後、スィースターニーはシーア派ウラマーに対し政治に関与しないよう呼びかけるファトワーを発出した。しかしながら2003年夏に近づくにつれ、直接ではなく常に代表を通じてではあるが、政治への関与を深め、憲法制定議会の形成、のちには移行政権成立のための直接選挙を呼びかける。これはシーア派がイラク人口の約60%を占めていることを背景としたイラク政府におけるシーア派優位の確立を目指したものとされている。その後スィースターニーはアメリカの計画について、イラク政府が十分に民主的ではないとして批判している。 2005年1月の選挙では、スィースターニーの布告と判定はシーア派住民の選挙参加への宗教的支持を与えるものであった。2004年10月1日の声明では、ひとびとは選挙を「重要な問題」と認識すべきであって、「自由かつ公正に……すべてのイラク人が参加すること」を望む、としている。これは選挙による民主主義について、権力が人民に由来しており、神に存する主権を踏みにじる「非イスラーム的」なるものだとの主張に対し、シーア派住民には投票すべき宗教的な義務があると示すものであった。選挙の結果、自身が影響力をもつイラク・イスラム革命最高評議会を中核とする統一イラク同盟が政権を獲得した。 また、バグダード南方のスンナ派が支配的な地域(「死の三角地帯」の名で知られる)で恒常的となったスンナ派サラフィー主義者による攻撃に対し、シーア派は応戦しないようにとも論じている。このような非暴力の強調により、2005年のノーベル平和賞候補ともなった。 2006年3月16日、スィースターニーは、自身のアラビア語版ウェブサイトで発出したファトワーについて同性愛者団体などから非難を受けた。これは男性、女性とも同性愛は「禁じられており」、同性愛者は「想定されるかぎりで最悪の方法で殺されるべき」と断ずるものであった。これについては、同性愛者を標的とした一連の殺人事件ののちにウェブサイトから削除された。これについてはイラクにおける同性愛者の権利およびイスラーム教徒による性的マイノリティー迫害を参照。 2019年10月上旬より発生した反政府デモによって11月下旬までに400人以上の死者、1万5000人もの負傷者を出したこともあり、11月29日、スィースターニーは定例の説教で内閣の入れ替えを要求。これを受け、アーディル・アブドゥルマフディー首相が辞任する意向を表明するなど、2010年代後半においてもなお影響力を保持している。 2021年3月6日、イラクを訪問中のローマ教皇フランシスコと自宅で会談。非公開で行われたが、イラクにおけるキリスト教徒の安全と権利について話し合いが行われたと報道された。
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