現代イタリアの「植民地」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:10 UTC 版)
「イタリアによるアメリカ大陸の植民地化」の記事における「現代イタリアの「植民地」」の解説
この試みに終わった植民地の後、19世紀まではアメリカ大陸のブラジル南部、ウルグアイおよびアルゼンチンで、他国の旗の下にイタリア人が入植することだけが続いた。 イタリア人はドイツと同様、アメリカ大陸で実際の植民地を創設することはなく、19世紀に国土統一を果たした後で世界の他の部分に地域的な植民地を造っただけだった。しかし、多くのイタリア人は、ドイツ人と同様にアメリカ大陸に移住して他国の旗の下に住み、いわゆる移民の「植民地」(イタリア人街)を造り出していった。これら「植民地」は同一地域同一時期に共に移住したイタリア人移民集団によって作られ、その多くは今日でも残るものになっている。 この種のイタリア人「植民地」として最初のものは1830年代後半に、ベネズエラにトスカーナのイタリア人移民を入植させようとしたルイギ・カステリによる試みだったが、トスカーナの船舶は地中海で沈没した。その数年後、同じ地域にドイツ人移民が入植し、コロニア・トバルの町を創設した。 19世紀後半になると、おもにウルグアイ、アルゼンチン、チリ、メキシコおよびブラジル南部(パラナ州、サンタカタリーナ州、リオグランデ・ド・スル州)に多くのイタリア人「植民地」が造られた。これら「植民地」の大半ではイタリア語とその方言が現在でも使われている。例えば、チリのカピタン・パステーン、メキシコのチピロ、ブラジルのサンタカタリーナ州ノバベネザ(ブラジルのタリアン(頭の「イ」が消えた形)と言われる)などである。 これら「植民地」のどれも20世紀のイタリアの植民地帝国には何の関連も無い。
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