朔平門外の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/07 15:23 UTC 版)
朔平門外の変(さくへいもんがいのへん[1])は、江戸時代末期(幕末)の文久3年5月20日(1863年7月5日)、破約攘夷を唱える公家の指導者であった姉小路公知(右近衛少将、国事参政)が、禁裏朔平門外の猿ヶ辻[2](さるがつじ)で暗殺された事件。現場に残された太刀から薩摩藩士田中新兵衛に容疑がかかったが、京都町奉行所に監禁された新兵衛は釈明せずに自刃したため、暗殺者は今なお不明[3]。猿ヶ辻の変(さるがつじのへん)とも。幕末において要職にある殿上人が暗殺された事件は空前絶後であり、当時の中央政局に大きな影響を与え、同年の八月十八日の政変が起きるきっかけにもなった。
- ^ 「さくべいもん」とも読む。『国史大辞典』(吉川弘文館)「朔平門」(朧谷寿執筆)
- ^ 事件当時の「猿ヶ辻」の位置と、現在の京都御苑内で「猿ヶ辻」の案内看板が立つ場所とはおよそ100メートルほど離れている。これは事件から数年後の慶応年間に、禁裏(御所)が北東方向に拡張されたことに伴って「猿ヶ辻」の位置も東に移動したことによる。現在「猿ヶ辻」の看板が立っている場所は、事件当時は有栖川宮邸の敷地であった(ページトップの地図を参照)。
- ^ 朝日日本歴史人物事典『姉小路公知』 - コトバンク
- ^ a b c 町田明広, 2009 & Kindle版、位置No.全3068中 1736 / 57%.
- ^ 町田明広, 2009 & Kindle版、位置No.全3068中 1887-1893 / 62%.
- ^ 正月28日、千種有文(左近衛権少将)の臣賀川肇が尊攘派浪士に殺害され、その右手が千種邸へ、左手が岩倉邸へ脅迫状とともに投げ込まれた事件をきっかけとして、重き謹慎となった。公武合体の最大の成果である、和宮親子内親王の徳川家茂への降嫁を推進した中心勢力と目された千種・岩倉・久我・富小路敬直(中務大輔)・今城重子(少将掌侍)・堀河紀子(右衛門掌侍。岩倉の妹)は反公武合体派若手公卿から「四奸二嬪」と称され、憎悪の対象となっていた。前年にはすでに四奸二嬪らは落飾・謹慎処分を受けていたが、反公武合体派公家の中山忠光が土佐藩の武市瑞山に殺害の助力を要請するなど対立は収まらなかった。
- ^ 町田明広, 2009 & Kindle版、位置No.全3068中 1774 / 58%.
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- ^ a b 町田明広, 2009 & Kindle版、位置No.全3068中 1767 / 58%.
- ^ 町田2009,147ページ、跡見花蹊『花蹊日記』など。
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- ^ a b 町田明広, 2009 & Kindle版、位置No.全3068中 1959 / 64%.
- ^ 高崎正風『尊攘録探索書』「全ク発狂之様ニ相見候、其已前より言語も不揃」など。
- ^ 町田明広, 2009 & Kindle版、位置No.全3068中 2010-2015 / 66%.
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- ^ 町田明広, 2009 & Kindle版、位置No.全3068中 2127 / 69%.
- ^ 勝海舟『幕末日記』文久三年四月二十五日条「朝姉小路旅館に到り、面会。摂海警衛之事を問はる。答云、海軍にあらざれば本邦の警衛立がたし、云々。長談皆聞かる。即刻、順動船に駕して、兵庫港に到らるべき旨なり」。
- ^ a b 町田明広, 2009 & Kindle版、位置No.全3068中 2150 / 70%.
- ^ 町田明広, 2009 & Kindle版、位置No.全3068中 2150-2156 / 70%.
- ^ 町田明広, 2009 & Kindle版、位置No.全3068中 2189 / 71%.
- ^ 『幕末日記』五月九日条「海軍ならびに器械製作の議、他年邦家の為に努力を尽せしに、一朝姉小路殿に説解せしに、公、英明之見を以て、終に奏聞を経られしによりけむ、今日此御沙汰を拝聴す。我が微衷、天朝に貫徹し、興国の基漸く立たんとす」。
- ^ 同前五月二十一日条「昨夜四ツ時、姉小路殿退朝の折、御築地の辺にて、何者やらむ、刃を振ふて胸間をさして逐てんすと云。此人朝臣中の人物にて、大に人望ありしが、何等の怨にやよりけん、此災害に逢はれし。小子輩此卿に附きて、海軍興起より、護国の愚策、奏聞を経て、既に御沙汰に及びしもの少なからざりしに、実に国家の大禍を致せり。歎息愁傷に堪へず」。
- ^ a b 町田明広, 2009 & Kindle版、位置No.全3068中 2132 / 69%.
- ^ 町田明広, 2009 & Kindle版、位置No.全3068中 1859 / 61%.
- ^ 『史談会速記録』での東久世通禧(当時姉小路の同志だった破約攘夷派公卿)発言。
- ^ 『官武通紀』(玉虫茂誼)「轉法輪三條中納言(三条実美を指す)。右之者姉小路と同腹にて、公武御一和を名として実は天下の争乱を好候者に付、急速に辞職隠居不致においては、不出旬日加天誅可令殺戮者也」。
- ^ 町田明広, 2009 & Kindle版、位置No.全3068中 2205-2211 / 72%.
- ^ 町田2009,153ページ、『七年史』など。
- ^ 町田明広, 2009 & Kindle版、位置No.全3068中 2110 / 69%.
- ^ 八月十八日の政変後、孝明天皇自身が政変以前の勅書は本意でなかったことを認めてしまったため、かえって勅書の権威が低下し、以後も自派に「玉」を取り込んで勅書を発せんとする動きが盛んとなる。文久三年八月二十六日孝明天皇在京諸藩主宛宸翰「これ迄はかれこれ真偽不分明の儀これ有り候えども、去る十八日以後申し出で候儀は、真実の朕の存意に候あいだ、この辺諸藩一同心得違いこれなき様の事」。
- ^ 事件前の4月22日にもすでに同様の勅旨が久光に出されている。
- 1 朔平門外の変とは
- 2 朔平門外の変の概要
- 3 殺害犯の捜査
- 4 犯行の動機
- 5 変の影響
- 6 脚注
- 朔平門外の変のページへのリンク