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滋野井公寿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 08:35 UTC 版)

 
滋野井 公寿
滋野井公寿
時代 江戸時代末期 - 明治時代
生誕 1843年7月1日天保14年6月4日
死没 1906年明治39年)9月21日[1]
官位 従三位侍従伯爵
主君 孝明天皇明治天皇
氏族 滋野井家
父母 父:滋野井実在
母:鷲尾理子(鷲尾隆純の娘)
兄弟 公寿、在子、文子、有綱、実慎
岩子、武子、養子:実麗
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滋野井 公寿(しげのい きんひさ)は、日本公家内政官僚華族甲府県知事伯爵

経歴

近衛権中将・滋野井実在の長男として生まれた。安政3年2月1856年)に元服侍従となる[2]

文久3年6月1863年西四辻公業後醍醐天皇陵攘夷祈願を行い差控となる。慶応3年4月1867年英国公使一行の伏見通過について、父・実在、鷲尾隆聚ら20数名と朝廷に警護の対策を取るよう強く進言し差控となる[2][3]。慶応4年1月1868年綾小路俊実と共に赤報隊の盟主に擁立されたが、活動中の金穀強要などを咎められ召喚令が出され帰京した[3]

王政復古後、明治元年4月1868年)、佐渡裁判所総督に就任[2]佐渡鎮撫使を経て、同年10月甲斐府知事となる。明治2年7月1869年)、甲斐府が甲府県と改称され甲府県知事兼甲府城守となる。明治3年(1870年9月、水害による凶作の独断による救恤処置が問題とされて謹慎となり、翌月知事を辞職[2][3]

その後、桂宮祗候などを務めた[2]。父の死去により1878年4月30日、滋野井家当主を継承[1]1884年7月7日、伯爵を叙爵[4]

栄典

親族

  • 養嗣子 滋野井実麗(伯爵、石井行光四男)[1]
  • 長女 岩子(田中遜夫人〔離縁〕、中川興長夫人)[1]
  • 娘 武子(たけこ、実麗夫人)[1]

脚注

  1. ^ a b c d e 『平成新修旧華族家系大成』上巻、705頁。
  2. ^ a b c d e 『明治維新人名辞典』476頁。
  3. ^ a b c 『幕末維新大人名事典』上巻、623-624頁。
  4. ^ a b 『官報』第307号、明治17年7月8日。
  5. ^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。

参考文献

日本の爵位
先代
叙爵
伯爵
滋野井家初代
1884年 - 1906年
次代
滋野井実麗



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