犠牲となった市民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:21 UTC 版)
ポーランド侵攻は、戦闘中や戦闘後に殺された市民が多く、ヨーロッパで行われた最も犠牲の大きな全面戦争の一つであった。侵攻開始直後からドイツ空軍は民間人や避難民の行列を攻撃対象にして凄惨な損害を与え、ポーランド軍後方の通信を混乱させた。このような無差別攻撃は9月1日午前4時からのヴィエルニ空襲が最初で、このヴィエルニ市への攻撃ではドイツ空軍によっておよそ1,200人の民間人が犠牲になった。最終的には、戦闘での直接の犠牲者とは別に、国防軍と親衛隊は何万人ものポーランド人捕虜と民間人に対する大量虐殺を犯したとされている。 また、 タンネンベルク作戦によって、国防軍、親衛隊、自衛団(ドイツ系ポーランド人で構成され、メンバーは戦前から編成され、ドイツでゲリラ戦の訓練を受けていた)の他、特別行動部隊 (Einsatzgruppen) という特別部隊も合わせてドイツ人のあらゆる武装組織が、作戦開始時の1939年8月から1939年10月までに約760箇所でおよそ20,000人のポーランド人の民間人、主に知識層、芸術家、社会的指導層に属する人々を銃殺した(そのうち2,000人はドイツ国籍を持ちドイツに住んでいたポーランド系ドイツ人で、彼らは開戦前の1939年8月中に殺害された)。タンネンベルク作戦は1939年5月から計画され、ポーランドに住んでいるドイツ系ポーランド人(主に自衛団員)もこの計画に協力して、総計61,000人にも上る「ポーランド特別指名手配台帳」 (Sonderfahndungsbuch Polen) が作成され、殺害はこのリストに則って実行された。ヨーロッパにおける第二次世界大戦の全期間を通じてドイツは占領下のポーランドでハーグ陸戦条約やジュネーヴ条約といった戦時国際法に明確に違反する様々な戦争犯罪を犯したが、タンネンベルク作戦におけるポーランド人大量虐殺事件はその最初の事例の一つとなった。 また1939年9月3日、ビドゴシチ(ドイツ名ブロンベルク)市内を通過して退却するポーランド軍部隊の兵士や近くにいたポーランド人住民に対して、ドイツの第五列構成員と思われる反乱分子が建物の屋根や教会の塔から銃撃してきた。開戦前のポーランドではドイツ系のポーランド人民間人が銃などの火器を所持することは厳重に禁止されていたが、ドイツ系住民はドイツ本土からの潜伏者を通じて、大量の銃砲を密輸し秘密裏に保持していた。この銃撃に対応して、ポーランド側の兵士や民間人は、反ポーランド破壊活動に参加していると疑われるドイツ系ポーランド人住民の家々を捜索し、私刑を行ったと宣伝されている。ナチス・ドイツの情報省によって1940年にアメリカニューヨークで刊行された本「Polish Acts of Atrocity Against the German Minority(ドイツ系少数民族に対するポーランド人の残虐行為)」によると、この日ポーランド兵やポーランド系住民は、あちこちで婦女子を含め無実の人々に対する残酷極まりない私刑を行ったとした。ドイツ当局によって、ビドゴシチ市内で殺害されたドイツ系ポーランド人住民の数は当初は223人から358人の間と推定され、郊外の村々ではさらに多数のドイツ系住民が殺害されたとされた。当日はビドゴシチとその周辺でドイツ空軍による激しい無差別攻撃が行われていたこともあって、この事件単独の正確な犠牲者の数はいまだ不明であり、この日のポーランド側の対応による直接の犠牲者は現在でも議論の対象となっている。この事件について、ドイツ側は犠牲者の数をまず5,000人と拡張して国内外に発表し、これもすでにかなり誇張された数字であるが、その後もさらに国内外へ向けての反ポーランドプロパガンダ政策推進のためその数字をさらに大幅に誇張して58,000人とし、最終的には60,000人以上として宣伝した。ドイツはこれを公式にブロンベルク血の日曜日事件と名づけた。 それから1週間後の9月9日から9月10日にかけて、実際は先週の事件より大規模となった「もう一つのブロンベルク血の日曜日事件」がビドゴシチ市で起こった。この両日、すでに市内に入城していたドイツ軍は9月3日の事件の報復と称し市内や周辺の各地でおよそ3,000人のポーランド人を無作為に選んで広場で銃殺するなどの様々な無差別殺人を行った。当時市内にいたイギリス人の目撃談によると、最初に殺害されたのは12歳から16歳までのボーイスカウトのメンバーの子供たちで、彼らは市内のマーケット広場に連れてこられて銃殺された。ドイツはさらに年末までに13,000人のポーランド人を、ポーランド北部に建設された、のちに絶滅収容所の一つとなるシュトゥットホーフ強制収容所に送った。 ドイツ軍のポーランド侵攻の期間、民間人の総犠牲者数は、ポーランド人約150,000人、ドイツ人(主にドイツ系ポーランド人)約5,000人と推定されている。
※この「犠牲となった市民」の解説は、「ポーランド侵攻」の解説の一部です。
「犠牲となった市民」を含む「ポーランド侵攻」の記事については、「ポーランド侵攻」の概要を参照ください。
- 犠牲となった市民のページへのリンク