無律法主義論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 16:08 UTC 版)
「ジョン・ウィールライト」の記事における「無律法主義論争」の解説
1636年春には既にニュータウン(後にケンブリッジに改名)の牧師トマス・シェパードがボストンの牧師ジョン・コットンとの文通を始め、その手紙でコットンの神学理論についての心配を表明し、またボストン教会の会員の中にある妙な意見の幾つかについても知らせた。コットンは神の自由な恵みが唯一の救いの道であると提唱しており、神聖化が救いのために必要な材料だと考える植民地の他の牧師達全てと見解を異にしていた。ウィールライトが植民地に着いたとき、これら神学論の違いについてコットンの固い同盟者になった。間もなく個人的文通で最初に共有した意見がニュータウンの信徒に対するシェパードの説教の中に活路を見い出すようになった。この「説教壇の攻撃」がウィールライトに気付かれないはずがなく、間もなくウィールライト自身の説教が、シェパードの説く「行いの契約」について批判的見解を持つようになった。 神学的緊張関係が植民地の中で盛り上がったが、ウィンスロップがその日誌に記録を残すほど注目されてきたのは1636年10月になってからだった。10月21日あるいはその直後に、不調和について記述していたが、信心深い牧師の1人を名指す代わりに、ウィールライトの義妹に非難の矛先を向けた。「ボストン教会の会員であるハッチンソン夫人は、機転が利き大胆な精神を持つ女性であり、2つの危険な誤りをもたらしている。1つは、聖霊のある人が正当化された人に宿るということ、2つは、我々の正当化に対して如何なる神聖化も証拠を与えられない、ということである」と記していた。 10月下旬、植民地の牧師達は直接宗教的見解に関する問題に直面し、コットン、ハッチンソン、ウィールライトと「私的な会議」をもった。この会議の成果は好ましいものであり、両者は合意に達した。その理論が恵みの契約にあるコットンは、神聖化(行いの契約)が神の目に恩恵を見い出すことに貢献するという他の牧師達に満足を与え、ウィールライトも合意した。しかし、この会議の効果は短命であり、コットンの教区民であるボストン教会信徒の大半が自由な恩恵という概念を強く支持した。教区民はウィールライトがコットンの次の説教師になることを望んだ。教会には既に別の説教師がいた。ジョン・ウィルソン牧師であり、自由の恩恵という考え方には同調的でなかった。ウィルソンは一般人であるウィンスロップの友人であり、ウィールライトの指名を阻止するために、教会の投票で全会一致を要求する規則の利点を生かしたのもウィンスロップだった。ウィンスロップはウィールライトの才能と信心深さを「尊敬すべきと考え」たが、「疑わしい論争を持ち上げる傾向にあり、その地位に彼を選ぶことには同意できない」と考えていた。ウィールライトが家族主義原理を維持したことを示唆するウィンスロップの方法だった。 1636年12月、牧師達が再度会合を開いたが、この集会では合意に至らず、コットンは神聖化が基本的に行いの契約となるという問題について警告した。ハッチンソンは直接問われた時に、他の牧師達が恩恵ではなく行いを説いていることを非難したが、個人的に非難しただけだった。これら神学的異論が植民地の政治的な面でも負荷を与えるようになっており、マサチューセッツの総督ヘンリー・ベインは自由な恩恵の強力な提唱者だったので、議会の特別会期でその辞任を宣言した。ベインはイングランドにその辞任する理由として緊急事態を連絡すると共に、催促されたときには、神の判断が「これら意見の違いと不和に対して我々に上がって」くるという彼の心配を口に出して説明していた。ボストン教会の信徒はベインの辞意を翻させることに成功し、一方植民地議会はこの植民地の問題について誰に責任があるかを議論し始めた。植民地議会は植民地の他の者達と同様に深く分裂しており、そのような後悔が平和を快復させることを期待して1月19日に総体的断食を要求した。
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