自分で発行した無罪証明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 16:08 UTC 版)
「ジョン・ウィールライト」の記事における「自分で発行した無罪証明」の解説
ウィールライトはマサチューセッツ議会からの無罪証明によってニューイングランドの同朋との関係を改善できたが、『短い話』の作者の告発によって、さらに1648年のサミュエル・ラザフォードの著作『精神的反キリスト教者の探索』によって傷つけられたと感じており、イングランド時代の人々にまで遡って汚名をそそぎたいと考えた。1658年、ロンドンのエドワード・コールがウィールライトの『簡潔で平明な弁明』を出版した。その長々しい副題は『トマス・ウェルド氏の短い話で告発されていた過誤、異端、凶悪な犯罪の全てに対し、さらにサミュエル・ラザフォード氏の無律法主義の探索で固定されたものに対し、彼が自分を正当化する』となっていた。 ウィールライトがこの作品を出版する目的は、彼の無実と裁判における不公平さを認識させるためであり、「獲得された恩恵が、伝統の考えからも正しいと認められる過程におけるその見解」が認められることだった。7つの神学的問題を3つの課題と4つの命題に分類して強調する道を選んだ。3つの課題はウィールライトの教義の本質を構成しており、断食の日の説教に基礎を与えていた。課題の後、命題の前の9ページは無律法主義論争の過程と人物を再現していた。ここでウィールライトは、公平さが無かったこと、彼は扇動と不服従という政治的な犯罪で告発されたこと、追放の真の理由は他の牧師達との教義的差異だったことを挙げている。その告発者が「不正な取引」をしたこと、秘密のうちに動いたことを告発している。彼はこの取引について友人の判事(おそらくウィリアム・コディントン)から告げられており、その判事はこれら手続きの幾らかを密かに書き写し、彼に与えていた。この章には、コットンによるウィールライトの弁護が入れられている。「私は我々の兄弟ウィールライトの教義が神のものに従っていると認識し告知する」としており、コットンは1648年の『解明された会衆派教会の方法』に再録していた。続いてウィールライトはその中間部を「ウェルドが嘘をついていることの熱心な告発」と読者を欺いていることに使っていた。 4つの命題は1637年の教会会議から出ており、ここでウィールライトは自分を、ジャン・カルヴァン、ジロラーモ・ザンチ、ドルト会議、テオドール・ド・ベーズ、ウィリアム・パーキンスなど、以前の改革者の指導に従う伝統的牧師として描いていた。その命題が課題の反復になるので、短縮され、再度『短い話』でなされた告発に戻っている。ウィールライトはその作品の最後で、自分は全て正しく、また無律法主義者ではないと言って締め括っている。 ウィールライトの『簡潔で平明な弁明』の執筆は、『短い話』が出版された1644年には既に始まっていた可能性があるが、最後の部分に記述されているものは1654年にマサチューセッツ議会で無罪証明された後に書かれている。この作品の前半で、ウィールライトは『短い話』の作者を1人の人物としており、はっきりとトマス・ウェルドが全体を書いたと考えている。しかし『弁明』の後半では作者を複数であるとしており、ウェルドだけがこの作品を書いたのではないと認識している。ウィールライトはトマス・ウェルド以外の名前を『短い話』の著者に挙げていないが、コットンとラザフォードが1648年に書いた本で挙げているので、もう一人の著者がジョン・ウィンスロップであると認識するようになっている。ウィンスロップは1649年に死んでおり、実質的な植民地の指導者としての評判でイングランドでも植民地でも尊敬され、ウィールライトがその名声を貶める合理的な理由が無かった。
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