洋式船の導入と海軍伝習
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 16:48 UTC 版)
嘉永6年(1853年)の黒船来航直後より、急激な海軍力の整備が開始された。ペリー艦隊の浦賀退去からわずか1週間後の6月19日にはオランダからの艦船輸入が決定され、8月8日には西洋式軍備の導入に先進的だった水戸藩に旭日丸建造の内命を下し、9月5日には浦賀奉行に鳳凰丸の建造を命じた。そして9月15日には「大船建造禁令」が解除され、諸藩でも軍艦建造への道が開かれた。 オランダ商館長ヤン・ドンケル・クルティウス(後の初代駐日オランダ理事官)は、長崎奉行水野忠徳からの帆走フリゲートと蒸気コルベット各1隻の建造照会を受けて、オランダ領東インドに配備されていた蒸気機関搭載の植民地警備艦「スンビン」を日本に召致して展示することにより、建造注文と要員養成の教育委託をすることを提案した。「スンビン」は嘉永7年(1854年)8月に長崎に入港し、同地の警備を担当する佐賀藩主鍋島直正の視察を受けた際に譲渡の希望を受けた。クルティウスは「将来の多数の受注のためにはまず1隻を献上するのが得策である」と本国政府に上申した。 これを受けて、同艦はオランダ国王ウィレム3世から13代将軍徳川家定に贈呈されることになり、安政2年(1855年)6月、長崎に再入港した。「観光丸」と改称された同艦を練習艦とし、オランダ海軍から派遣されたライケン大尉以下22名を教官として、長崎海軍伝習所が開設された。オランダからは1857年にも37名の教官団が派遣されており、5年間にわたる伝習期間を通じて、幕府以外にも佐賀・福岡・熊本・薩摩・長州・土佐など諸藩からも伝習員が派遣され、計200名以上が入校した。これにより、幕府海軍の中核を担う士官が多く輩出された。 また、長崎という遠隔地での伝習による不都合が指摘されたことから、これと並行して、江戸にも海軍教育機関を設置することになり、安政4年(1857年)、永井尚志や矢田堀鴻など第一次伝習生の一部が「観光丸」で江戸に移動し、講武所内に軍艦操練所が開設された。 安政7年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節団が派遣されることになった際、正使一行はアメリカ軍艦ポーハタン号に乗艦することになっていたが、同艦だけでは使節団の全員を収容できないことから、幕府海軍の練習航海も兼ねて、咸臨丸も派米された。往路の荒天下では、便乗していたジョン・ブルック大尉以下アメリカ海軍軍人が艦の運用のほとんどを代行する状況もあったとはいえ、往復83日間・合計10,775海里 (19,955 km)の大航海を一人の死者もなく成功させたほか、アメリカ海軍の実情視察という成果もあった。しかし一方で、航海・運用の技量不足という重大な問題点が顕在化したものの、こちらは当時取り上げられることはなかった。 長崎伝習所は安政6年(1859年)に閉鎖されたが、同年に軍艦奉行の役職が新設され、永井尚志が任命された。
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