洋式船舶の製造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 17:02 UTC 版)
ロシアの使節であるプチャーチンがディアナ号に乗って来国したさい伊豆沖で難破し、この代船を建造するため、幕府は全国の諸大名に対し、船大工の腕利きな者を伊豆の君澤に集めて西洋帆船の造船技法を学ばせ江戸において『ヘタ号』と称して造船させた。このとき土佐藩の吉田東洋は、山内容堂に連絡をとり、土佐から船大工として岡孫八を派遣させ造船技法を学ばせた。彼はこの技法を学び、土佐においてはじめての洋式船を建造し曜霊船と名付けた。同船は土佐一宮の樟樹を用いて三本の帆柱で帆を張り風力を利用して走る船であった。何分最初の洋式船であるがため関係者の苦労は一方ならず、錨の鋳造方法がわからず、銑鉄の方法については藩内の鍛冶職人を集めて製造にあたり、コーヘルは三島屋半衛門の請負で黄銅を打ち延ばしたりして部品の整備にとりかかったという。積載量は370石、喫水点はわずかに78寸であった。最初の船長は久保源七で、間もなく坂本専次郎に代わり、数学者の野村料平が事務長として乗組み、貿易ためたびたび瀬戸・長崎の間を航海した。
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