洋式兵学者としての業績
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「赤松小三郎」の記事における「洋式兵学者としての業績」の解説
安政2年(1855年)より勝海舟の門人として長崎海軍伝習所に赴く。長崎で最新式のミニエー銃の性能を知り、新銃が戦闘方法も一変させると考え、関心は海軍から陸軍に移っていった。安政4年にはオランダ語の原書から新式のミニエー銃の性能を詳述した『新銃射放論』を、安政5年にはオランダ陸軍の銃の使い方の教則である『矢ごろのかね 小銃彀率』を、それぞれ翻訳出版している。当初は勝海舟の従者として活動していたが、途中で勝のもとを離れ、安政5年からは第3期伝習生として長崎入りしていた旗本の小笠原鐘次郎に従って騎兵学を学んでいる。 安政6年に海軍伝習所が閉鎖されると、江戸に戻って咸臨丸への乗船を希望したが願いが叶わず、失意のうちに上田に帰国した。万延、文久年間は上田藩で兵制の洋式化に務めた。 元治元年(1864年)、第一次長州征伐に際し、上田藩の公務として武器の買い付けに江戸に出たことを契機に、横浜駐留の英国の騎兵士官ヴィンセント・アプリン大尉より英語の指導を受けつつ、イギリスの兵学書の翻訳に着手する。慶応元年、江戸に出て英国式兵学を学ぼうとしていた薩摩藩士の野津道貫が赤松小三郎に弟子入りしている。後に赤松を薩摩藩に招請したのも野津であった。慶応元年の第二次長州征伐に際し、上田藩は徳川家茂の護衛として大坂城に在陣することになり、赤松も大坂に赴いた。赤松は、陣中でも英国兵書の翻訳作業を進め『英国歩兵練法』(1862年版英国式歩兵操典Field Exercises & Evolutions of Infantry)として翻訳出版をした。同書は五篇からなるが、一、三、五篇が赤松の翻訳で、二、四篇は金沢藩士で下曽根塾の同門であった浅津富之助(後の南郷茂光)の翻訳であり、下曾弥版として出版した。これは日本で最も早い、英国の専門書からの直接の翻訳書であった。この訳書により、ようやく赤松小三郎の名は、英国式兵学者として轟くことになった。 慶応2年(1866年)より、京都に私塾を開き、英国式兵学を教える。門下生には、薩摩・肥後・会津・越前・大垣などの各藩士から新選組の隊士までが含まれており、呉越同舟状態であった。 慶応2年10月には薩摩藩から兵学教授として招聘され、京都の薩摩藩邸において野津鎮雄(塾頭)・野津道貫・中村半次郎・村田新八・篠原国幹・黒木為楨・東郷平八郎・樺山資紀・上村彦之丞ら約800人に英国式兵学を教え、藩士たちの練兵も行った。薩摩藩の兵制を蘭式から英式へと改変するのに指導的役割を果たした。 また慶応3年3月頃から、会津藩士・山本覚馬より会津藩洋学校の顧問就任を依頼され、友人の西周と共に会津藩洋学校の顧問を務めた。 『英国歩兵練法』の初版本には誤訳もあり、赤松と浅津富之助とのあいだの訳語の不統一もあった。さらに完訳本ではなかった。そこで薩摩藩から依頼を受け、1864年のイギリスの改定版原本に基づいて、慶応3年5月に改めて『重訂英国歩兵練法』(七編九冊)として出版した。この重訂版(薩摩藩版)は巷に流布しないよう、薩摩藩軍局の厳重な管理下に置かれた。 島津久光は、訳本の完成を大いに喜び、赤松に当時の世界でも最新式の騎兵銃を贈ってねぎらった。
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