沈黙期
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帰郷後、地元の新聞にエッセイを寄稿したり、文芸サークルに所属することもあったが、1941年(昭和16年)に書いたもの(『大田洋子と私』(日本海新聞7月5日付))を最後に発表しなくなる。これに先立ち母の介護、看取りにかかわったことが、発表されたこの記事中からも推測される。その後、母方親族とともに、甥姪の成長を見守り、戦争と震災(鳥取地震)とを乗り越える。特に震災では鳥取市寺町の自宅も被災し、バラック建の家にて災害後を過ごさざるを得なかった。1947年(昭和22年)親友の松下文子が鳥取に来訪し、久しぶりに語り合う。蟹や牡蠣を食べながら、「書かねばならない」と創作活動再開への関心を示したと言われる。1956年(昭和31年)、末妹忍が死去し、遺児を引き取る。この頃、寺田寅彦、獅子文六、北杜夫らを愛読しており、親族、親友に宛てた書簡にて、新刊本の取り寄せを依頼する文面が見受けられる。
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沈黙期
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「アンナ・アフマートヴァ」の記事における「沈黙期」の解説
1921年に第四詩集『おおばこ』を、翌1922年には『おおばこ』に革命以後の作品を加えた第五詩集『旧暦1921年』(Anno Domini MCMXXI)を発表。この二冊を最後に、アフマートヴァは長い沈黙期に入る。しかしこの沈黙はアフマートヴァが自ら筆を折ったためのものではなく、当局に強いられたものであった。『反革命的』詩人であるアフマートヴァの著書は発禁処分を受け、新しい作品を発表することもできなくなったのである。アフマートヴァの周辺でも、1925年にはエセーニンが、1930年にはマヤコフスキーがいずれも自ら命を絶ち、アフマートヴァの最もよき理解者であったマンデリシュタームもスターリンを揶揄した詩を書いたために逮捕され、ヴォロネジへ流刑に処されることとなった。そればかりか、マンデリシュタームの逮捕からほどなくして、今度はアフマートヴァの息子レフ・グミリョーフまでもがテロリスト容疑で逮捕されるという事件が起こったのである。さいわいこのときには二週間程度で釈放されたが、1938年に再逮捕され、シベリアへ流刑となった。 1925年、アフマートヴァは美術史家のニコライ・プーニン(Nikolay Punin)と再婚した。ただしこれは正式な結婚ではなく、住宅難から新しい住居を見つけることができずにいたプーニンの前妻と子供との同居という奇妙な同棲生活であった。しかしこの生活も長くは続かず、プーニンもまたレフとほぼ同時期に逮捕され、生死も定かではなくなってしまった(1953年にヴォルクタのグラーグで獄死したことが後に判明した)。 1920年代後半のアフマートヴァは、プーシキンを題材とした評論を十数篇書き残している。プーシキンもまた社会によって葬られた詩人であり、詩人と権力の関係をめぐるこれらの評論は後年専門家からも高い評価を受けている。他にも、収入の道をほぼ閉ざされていた沈黙期にはレオパルディの翻訳などを学術誌に発表することで糊口をしのいでいた。 このころからアフマートヴァは批評家であり作家でもあるリージャ・チュコフスカヤ(Lydia Chukovskaya)と親しくなる。リージャは、かつて評論『アフマートヴァとマヤコフスキー』でアフマートヴァとマヤコフスキーを比較して論じた児童文学者コルネイ・チュコフスキーの娘である。リージャはまたアフマートヴァの熱烈な愛読者でもあり、秘書のような役割をも果たすこととなった。二人を結びつけたものは文学だけでなく、リージャの夫である物理学者マトヴェイ・ブロンシテインもまたレフと同じ時期に逮捕されていたため(ブロンシテインは間もなく処刑され、1940年になってリージャはようやく死の真相を知らされた)、当時のロシアに吹き荒れていた恐怖政治の犠牲者という運命を共有していたことなどがあげられる。リージャはその日記の中でアフマートヴァと交わした文学や日常生活にまつわるさまざまな会話を克明に記しており、これは沈黙期のアフマートヴァに関するほぼ唯一にして最も詳細な記録として後年『アンナ・アフマートヴァをめぐる覚書』の題で出版されることとなった。この記録の中でとりわけ重要なのは、当時のアフマートヴァがいかにして自分の作品を誰にも知られることなく書き綴ることができたかを記した部分である。アフマートヴァとリージャは、1930年代の詩篇のすべてを暗誦し、文字には書き残さずに発禁処分が解かれる日まで頭の中に保管していたのである。アフマートヴァ個人のみならず1930年代のソ連を代表する長詩『レクイエム』はこうして記憶によって書かれた。
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