1604年問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:56 UTC 版)
「シェイクスピア別人説」の記事における「1604年問題」の解説
マーク・アンダーソン(Mark Anderson)は著書"Shakespeare by Another Name"においてシェイクスピアの作品それぞれの執筆年代を調べ、作者が1604年に謎の休筆をしていることに注目した。1593年から1603年にかけて、シェイクスピア作品は少なくとも年に1作、多い時には4作もの割合で出版されていたのだが、その後1604年に入ると、シェイクスピアは突如として沈黙期に入り、約5年間新作の発表が途絶えたのである。初期の史劇の再版も1604年を1つの転換点としている。1593年から1604年までの間、シェイクスピア作品の劣悪な海賊版が数多く出版されては、その直後に増補ないし改訂された公式の再版本が刊行されるといういたちごっこが続いていた。ところが1604年を過ぎると、この新しい増補や改訂が行われなくなったのである。この点においてもシェイクスピアの仕事が1604年に中断されていることが見て取れるが、当時存命であったストラトフォードのシェイクスピアが作者であるならば、名声の頂点に達していた頃に筆を折るべき理由がないのである。アンダーソンはさらに、シェイクスピアは16世紀の終わり頃まではその時点で最新の科学的発見や出来事を作品の中へ盛り込んでいたのにもかかわらず、オックスフォード伯の死去した1604年頃から科学に関しても沈黙を守るようになったことに喚起を促している。いくつかの例の内目立ったものを挙げるならば、1604年の10月に見られた劇的な超新星(SN 1604)や、1609年に発表されたケプラーの惑星軌道に関する画期的な研究について、作品の中で全く触れられていないのである。 W・R・チェトウッド(W.R.Chetwood)は1756年に、著書"Memoirs of the Life and Writings of Ben Jonson"において、上演記録に基づきながら「1603年の終わりもしくは翌年のはじめに、シェイクスピアは作家としても役者としても、舞台に別れを告げたのだ」と結論付けている。1874年、ドイツの文学史家カール・エルツェ(Karl Elze)は、シェイクスピアの最後期の作品とされる『テンペスト』と『ヘンリー八世』はいずれも1603年から1604年に掛けて書かれたものだと述べている。さらに、18世紀から19世紀の研究者の多くが『ヘンリー八世』の執筆年代を1604年以前としている。 ただし、シェイクスピア作品の執筆年代はいずれも推測であり、完全に年代を特定された作品は極めて少ない。1604年以降執筆をしていないというのはオックスフォード派による研究成果であり、ストラトフォード派の研究者の多くは『冬物語』や『テンペスト』を1610年頃に書かれた作品と考えている。しかしそれでも、1590年以降毎年少なくとも1作は執筆していたシェイクスピアの書誌の中で、1604年と1605年だけが空白となっていることに関しては従来の研究者も同意している(ストラトフォード派の書誌とオックスフォード派の書誌を比較されたい)。オックスフォード派の研究者は、それに加えて以下のような証拠を例示することで、シェイクスピアのものとされる戯曲や詩を書いた人物は1604年頃、遅くとも1609年までには死去していたはずであるという結論を出している。 これらの見解の真実性が明らかになれば、正統的ストラトフォード派の学者がその拠り所を失うことになるのは確実である上、ベーコンやネヴィルも真作者候補から外されることとなるため、この問題はオックスフォード派にとって最重要の立脚点であるばかりなく、反ストラトフォード派全体にとって極めて重要な論点となっている。
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