1603年から1639年まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 02:12 UTC 版)
「合同法 (1707年)」の記事における「1603年から1639年まで」の解説
17世紀では宗教と政治が密接な関係にあったこともあり、ジェームズ1世は1603年にイングランド王に即位すると、合同への第一歩としてイングランド国教会とスコットランド国教会の合同を目指した。彼は即位にあたって、イングランドとスコットランドという2つの国の君主になることを2人と結婚することに例え、「重婚罪にならないよう」イングランドとスコットランドの合同を目指すと宣言し、国王大権をもって「グレートブリテン国王」(King of Great Britain)という称号を使用、宮廷、ひいては自身にイギリスの風格を取り入れた。 1603年にイングランドで成立したイングランド及びスコットランド合同法(英語版)により、合同の条件を交渉する共同委員会が設立されたが、イングランド議会は合同の結果スコットランドのような絶対君主制がイングランドに強いられることを憂慮した。ジェームズ1世は合同を迅速に行うという望みを一時的に諦めることになり、1610年に再度試みたもののやはり失敗に終わった。 ジェームズ1世はイングランド国教会とスコットランド国教会の合同を目指したが、両教会は組織も教義も異なる点が多く、スコットランド側は組織では長老制を採用し、教義ではカルヴァン主義を採用したが、その結果スコットランド側ではイングランド国教会の多くの慣習をカトリックと大同小異であるとみた。このように、ジェームズ1世と息子チャールズ1世の宗教政策は政治上の統合を目指すための準備であったが、反発を招いた結果1638年にスコットランドで国民盟約が設立され、1639年から1651年までは清教徒革命が勃発した。
※この「1603年から1639年まで」の解説は、「合同法 (1707年)」の解説の一部です。
「1603年から1639年まで」を含む「合同法 (1707年)」の記事については、「合同法 (1707年)」の概要を参照ください。
- 1603年から1639年までのページへのリンク