1601年~1603年夏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 15:11 UTC 版)
「オーステンデ包囲戦」の記事における「1601年~1603年夏」の解説
スペイン軍はオーステンデ南西部の砂丘に攻城重砲を備え付け、旧港越しに北西沿岸の防御施設へと砲撃を行った。これらの防御施設が位置している砂丘は、満潮時にも水没しないため、占拠することができれば都市内への効果的な砲撃が可能であると同時に、海上補給路の一つである旧港を封鎖することもできた。 スペイン軍は1602年1月7日夜に、北西沿岸へと夜襲をかけたが失敗し、少なくとも2000名の損害を出した。この夜襲の失敗以後、スペイン軍が強襲を試みることはなかったが、南西部に高台を築き、高所からの継続的な砲撃を行った。またイタリア人技術者ポンペオ・タルゴーネ(英語版)が開発した新兵器群による攻撃が南西部や東部から行われたが、一つとして効果を上げることはなかった。 一方、守備隊側は新港を通して継続的に補給と増援を受け取ることができ、また補給部隊に随伴して市民の見物人(女性も含む)が訪れ包囲戦を見物することもあった。 こうした膠着状態は、アンブロジオ・スピノラが到着する1603年夏まで続くことになる。
※この「1601年~1603年夏」の解説は、「オーステンデ包囲戦」の解説の一部です。
「1601年~1603年夏」を含む「オーステンデ包囲戦」の記事については、「オーステンデ包囲戦」の概要を参照ください。
- 1601年~1603年夏のページへのリンク