東北・上越新幹線建設反対運動による大宮以南延伸開業の遅延
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詳細は「東北・上越新幹線反対運動」および「赤羽台トンネル#反対運動」を参照 東北・上越新幹線の建設が開始された1970年代前半は、名古屋新幹線訴訟をはじめ、先に開業していた東海道・山陽新幹線の騒音問題が社会問題化した時期にあたる。このような中で建設が開始された東北・上越新幹線の沿線では、東北地方を含めた各地で騒音を懸念しての反対運動が展開された。特に、当初の工事実施計画では地下方式(南埼玉トンネル)での建設が予定されていた荒川北岸 - 大宮駅南側(埼玉県南部の戸田市・浦和市・与野市)の区間は、軟弱な地質により地盤沈下が懸念されたため、1973年(昭和48年)3月10日に高架方式に変更、また、その経路の変更に伴い東京都北区・板橋区においては、星美学園の敷地直下にトンネル(赤羽台トンネル)が新たに掘られることとなった。そのため、特に都市化が進展しつつあった、埼玉県南部沿線3市やその沿線住民およびトンネルで真下を通過することになった同学園とそれに呼応した北区の沿線住民の反対運動は、激化・長期化することとなり、工事用地内への居座り・デモ行進・地元説明会打切りなどの妨害行為がなされ、開業時期の遅れや事業費の肥大化の大きな原因となった。この反対運動により、通勤新線(現在の埼京線)を併設するなど計画の変更がなされた。 その後、国鉄が新幹線と通勤新線の併設を正式に表明したことなどを受け、沿線3市や北区の反対姿勢も軟化し、住民側も反対運動は次第に下火となっていったが、与野・浦和・戸田3市の一部の住民は1980年(昭和55年)4月に高架線での認可の取り消しを求める訴訟を、同年9月には北区の沿線11地区の住民が工事差し止めを求める訴訟をそれぞれ起こしたが、最後まで強硬に反対していた星美学園が1982年(昭和57年)11月25日に補償問題について和解と合意に達した。しかし、一部区間の工事については、前述の住民訴訟もあり、1983年(昭和58年)8月に国鉄再建監理委員会の緊急提言により、安全対策上やむを得ない工事に限って施工するとした方針が示され、工事は一時停滞した。その後、3市の住民側は当時の埼玉県知事の提案などによって沈静化、北区の住民側も1984年(昭和59年)6月30日にトンネル上部の支障住宅の移転が完了、同年8月8日には地元と工事に関する協定書が正式に調印、裁判も同年10月3日に和解が成立し、全体の着工が可能となった。 また、1971年(昭和46年)10月の認可時点では、東北新幹線は東京駅在来第6、第7ホームを東北新幹線に転用し、秋葉原駅付近で地下に入り、御徒町から上野公園の下を通って日暮里駅内で再び地上に出るルートが計画されており、上野に駅を設置する計画は存在しなかった。しかし、東海道新幹線の利用客増加に伴う東京駅の容量不足により、第7ホームは東海道新幹線に転用された。これを補完するために上野駅を設置する工事実施計画の変更が行われ、1977年(昭和52年)12月に東京 - 盛岡間工事計画変更 (その2)が認可された。東北新幹線の上野駅は深さ約30 mの地下4階に設けられ、2面4線で折り返し可能な構造で設計された。
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