昭和40年代前半のポップス・歌謡曲(1960年代・日本のフォークロック)
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「ニューミュージック」の記事における「昭和40年代前半のポップス・歌謡曲(1960年代・日本のフォークロック)」の解説
Forever (雑誌)などに寄稿する洞下也寸志が編集人を兼任する同人誌GS&POPS No.7(1984年)に自身の書き下ろし記事「フォーク・ロック入門」にて、グループ・サウンズの範囲からボブ・ディラン(1965年)以降の日本のフォークロック起源について自身の考察から簡単な説明と将来の判断を仰ぐ議論提起の一節を添えている。 荒井由実は1972年シングル「返事はいらない」を発表しレコードデビュー、その後の松任谷由実の自著書『ルージュの伝言』(1984年)中の発言について、松任谷由実は作詞家としては大きな功績を持つが、「ニューミュージック」の起源とされる推定期間が長く(2016年時点からの考察と視点)、作曲やアレンジ(編曲)について省略されたこの記述内容には注意を要し(結婚前ミュージシャン松任谷正隆の実績など)、疑念を抱かざるを得ない。松任谷以前の国内ポップス楽曲の傾向については、デビューしたレーベルアルファレコード(以下「アルファ」と略)の社歴と動向から一部の流れを読み解くことが出来る。(アルファレコードの初期時代の参考サンプル・編集盤に「ソフトロックドライヴィン・栄光の朝アルファ編』アルファミュージック ALCA5089(1996年発売)などがある。)。 1969年11月村井邦彦が日本コロムビアとの契約から発足、村井は先行して1967年作曲家業を開始、作詞家山上路夫、安井かずみなどと共作し、様々なバンドやミュージシャンのプロデュースとアレンジャーを務めている。アルファ初期には赤い鳥、ガロなどが在籍、他社東芝音工に村井と山上が楽曲提供したトワ・エ・モワなど カレッジフォーク系とも呼ぶミュージシャンたちと制作作業を行った。 カレッジフォーク系とされるミュージシャンにはほかにPPMフォロワーズ(小室等が結成、再編で蠢動期間のヴィレッジ・シンガーズから山岩爽子が移籍している。)、森山良子、トワ・エ・モワ、五つの赤い風船、マイク眞木、ザ・リガニーズ、バンド時代のチェリッシュ、モダン・フォーク・フェローズ(景山民夫が一時在籍)などがいた。 グループ・サウンズではアメリカ系フォークロックを反映したザ・ダウンビーツ、郷田哲也とサン・フラワーズなどがいた。1960年代に日本のフォークロックという視点から、残されている録音発表された作品について触れるとザ・サベージ、ヴィレッジ・シンガーズなどがその特徴を揃え、ジャズインストロメンタルから転じジャズ/ボサノヴァ・ギター奏者伊勢昌之作曲の楽曲・風船のミッキー・カーチスとザ・サムライズ、それにカヴァーのおもなものでは、ピーター・ポール&マリーの500マイルをカヴァーしたザ・スパイダース、 同じくベリー・ラスト・デイはカレッジフォークのトワ・エ・モワ、ママス&パパスの夢のカリフォルニアをモダン・フォーク・フェローズが取上げている。英米のロックとポップスが次々と進化発展を遂げて、日本のミュージシャンたち、楽曲作者や制作側を刺激し、活動範囲や出演場所からフォークやロックグループ(グループサウンズ)と分けられることがあったがこのアメリカのバーズ、ラビンスプーンフルなどを経てカヴァー・コピーから吸収し日本の古典邦楽・雅楽をとりれた寺内タケシとバニーズアウト・キャストなどの様々バンドやフォークグループが独自・オリジナルのフォークロックを試し、マイク眞木の1966年、バラが咲いたは作詞・作曲を浜口庫之助が務め、村井にいずみたくなどが新しい日本のポップス(歌謡曲)・ロック音楽を模索していた。
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