昭和40年代から全廃まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 19:09 UTC 版)
「西鉄福岡市内線」の記事における「昭和40年代から全廃まで」の解説
昭和30年代から福岡市でも全国の他都市と同様、自家用車の普及(モータリゼーション)、路面電車沿線の都市中心部の人口が減少し郊外の人口が増加するドーナツ化現象などの影響により路面電車の利用者が減少、また1963年(昭和38年)から福岡、北九州両路面電車路線の自動車軌道敷内通行が解禁されたことにより定時性の低下という問題が発生、特に福岡市内線の影響は深刻で、走行速度は平均2割落ち、自転車にさえ追い抜かれる状態となり、昭和36年度(1961年4月 - 1962年3月)に2億6,000万人いた延べ乗客数が、昭和42年度(1967年4月 - 1968年3月)には2億3000万人と1割以上減少、路線バスの年間乗客総数の半数を割り込み、軌道事業はついに赤字に転落、同社が運営する路線バス事業から見ても、渋滞の原因になる路面電車の存在は「お荷物」となっていた。 対策として、まずボギー車でのワンマン運転(車掌乗務廃止)および連接車でのツーマン運転(車掌を2人から1人に減らす)の実施、信号場の自動化などの合理化・近代化を実施して人員数を圧縮していった。これに合わせる形で木造の100形が全廃された。 一方、福岡市・北九州市の将来の交通体系を審議する都市交通審議会(現在の交通政策審議会の前身)北部九州部会では、1971年(昭和46年)に「福岡市および北九州市を中心とする旅客輸送力の整備増強に関する基本計画について」と題する答申案を運輸大臣に提出した。この内容は、1985年(昭和60年)までに高速鉄道(地下鉄もしくはモノレール)を中心とした総合的交通体系を確立し、路面電車を廃止するというものであった。 これを受けて運輸省、福岡市、北九州市、西鉄により福岡市交通問題審議会が開催され、協議の結果答申通り福岡市は市営地下鉄を建設し、西鉄は路面電車を廃止してバス路線を整備する方針が固められた。まず1973年(昭和48年)に交通渋滞の著しい国道201号(当時)を通る吉塚線が廃止されたのを皮切りに、1975年(昭和50年)には地下鉄工事区間と並行する貫通線、呉服町線、城南線が廃止された。このときに連接車は廃車または譲渡され、ボギー車も500形・551形と561形の一部を除き廃車、または北九州線に転出した。 その後、残った循環線と貝塚線も1979年(昭和54年)2月11日に廃止され、福岡市内線は全廃された。
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