昭和40年代から昭和末期とは? わかりやすく解説

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昭和40年代から昭和末期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:23 UTC 版)

上方落語」の記事における「昭和40年代から昭和末期」の解説

昭和40年代に入ると、米朝、春團治、3代目小文らが積極的に採り続けてきた弟子たちが、テレビ時代深夜放送ブーム背景台頭。可朝、笑福亭仁鶴桂三枝現在の6代目桂文枝)、笑福亭鶴光2代目桂春蝶笑福亭鶴瓶桂朝丸現在の2代目桂ざこば)らが注目を浴びる。とくに仁鶴は、初代桂春團治意識した爆笑落語人気集め1972年昭和47年)には、テレビラジオのレギュラー番組ひっぱりだこで、一躍スターダムのしあがった師匠連は、若手マスコミ進出上方落語広く認知してもらう最良の手段として容認しており、結果入門者が増加するなどし、その意味でも仁鶴功績大きい。 ラジオによる寄席中継が、従来漫才東京落語から、上方落語中心になったのもこのころで、1971年昭和46年10月には朝日放送開局20周年記念して1080分落語会」を開催。朝7時から深夜1時まで計56席(講談1席含む)が生放送流された。ほかラジオ大阪の「オンワード落語百選」、FM大阪の「上方FM寄席」などが、若者中心に多くファン開拓した。 ー方では1966年昭和41年)の「米朝スポットショー」を皮切りに、大ホールでの独演会が行なわれるようになり、特に米朝放送タレントとしての知名度フォローもあって独演会や一門会を展開。文も「小文枝の会」に集うファンと一体となった独演会東阪開催した当時東京では大学生中心に上方落語ファン増えており、やがてこのムーブメント全国的に広がっていった。この頃から米朝、春團治、文対す評価高まり、やがて彼らは「上方落語の四天王」と呼ばれるようになっていく。 落語人気とともに戦前は「天狗連」と呼ばれた素人落語サークル次々と生まれたが、特に大学生から成る落語研究会」が最もさかんであったここから多く俊才プロの門をくぐって現在の上方落語界を支えている。 1986年昭和61年)、戦後の上落語牽引してきた6代目他界する前後して2代目桂枝雀台頭しいわゆる漫才ブーム」の渦中ありながら、のちに「爆笑王」と呼ばれる程の人気を築く。ここに至って上方落語復興期終え次の時代へ向かうこととなる。

※この「昭和40年代から昭和末期」の解説は、「上方落語」の解説の一部です。
「昭和40年代から昭和末期」を含む「上方落語」の記事については、「上方落語」の概要を参照ください。

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