昭和40年代から昭和末期
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「上方落語」の記事における「昭和40年代から昭和末期」の解説
昭和40年代に入ると、松鶴、米朝、春團治、3代目小文枝らが積極的に採り続けてきた弟子たちが、テレビ時代・深夜放送ブームを背景に台頭。可朝、笑福亭仁鶴、桂三枝(現在の6代目桂文枝)、笑福亭鶴光、2代目桂春蝶、笑福亭鶴瓶、桂朝丸(現在の2代目桂ざこば)らが注目を浴びる。とくに仁鶴は、初代桂春團治を意識した爆笑落語で人気を集め、1972年(昭和47年)には、テレビラジオのレギュラー番組にひっぱりだこで、一躍スターダムにのしあがった。松鶴ら師匠連は、若手のマスコミ進出を上方落語を広く認知してもらう最良の手段として容認しており、結果入門者が増加するなどし、その意味でも仁鶴の功績は大きい。 ラジオによる寄席中継が、従来の漫才や東京落語から、上方落語中心になったのもこのころで、1971年(昭和46年)10月には朝日放送が開局20周年を記念して「1080分落語会」を開催。朝7時から深夜1時まで計56席(講談1席含む)が生放送で流された。ほかラジオ大阪の「オンワード落語百選」、FM大阪の「上方FM寄席」などが、若者を中心に多くのファンを開拓した。 ー方では1966年(昭和41年)の「米朝スポットショー」を皮切りに、大ホールでの独演会が行なわれるようになり、特に米朝は放送タレントとしての知名度のフォローもあって独演会や一門会を展開。文枝も「小文枝の会」に集うファンと一体となった独演会を東阪で開催した。当時東京では大学生を中心に上方落語ファンが増えており、やがてこのムーブメントは全国的に広がっていった。この頃から松鶴、米朝、春團治、文枝に対する評価は高まり、やがて彼らは「上方落語の四天王」と呼ばれるようになっていく。 落語人気とともに、戦前は「天狗連」と呼ばれた素人落語のサークルも次々と生まれたが、特に大学生から成る「落語研究会」が最もさかんであった。ここから多くの俊才がプロの門をくぐって、現在の上方落語界を支えている。 1986年(昭和61年)、戦後の上方落語を牽引してきた6代目松鶴が他界する。前後して2代目桂枝雀が台頭し、いわゆる「漫才ブーム」の渦中にありながら、のちに「爆笑王」と呼ばれる程の人気を築く。ここに至って上方落語は復興期を終え、次の時代へ向かうこととなる。
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